Home ウィトゲンシュタイン的雑感(Internet Resources 編集雑記) 1999年

 

ウィトゲンシュタイン的雑感(Internet Resources 編集雑記)  -1999-

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1999


●kotoba.ne.jp について(99/7/26)

 ことばは所有できない。道具でもない。という漠然とした感じをいだいていたのですが、URLとその管理を行っているJPNICの役割を見ると不思議な気持に襲われます。インターネット上でよくみかけるホスティング会社のweb広告に「早い者勝ち」というコピーがあるのですが、ドメイン名としての「文字列」は会社や組織、個人が「早い者勝ち」で「占有」することができる。というところに不思議さがあるわけです。まぁ、似たような例は古くから「商標権」として厳としてあるわけですが、商標権にしても、ドメイン名にしても、それを管理監督する権威機関(国家行政機関、あるいはJPNIC)という管理者が存在してはじめて機能している。つまり、占有状態というのは人為的な状態で、異議があっても同意が要請されるような何かだということです。

 今年の末には電話料金の体系がよりインターネット寄りになって、テレホーダイならぬツナギホーダイというか、24時間接続が1万円/月程度で可能になるようだから、ドメインサーバーの設置も簡単にしかも低コストでできるようになるのではないか。もちろんPPP接続のクライアント使用に限定されるのであれば必ずしも美味い話ではないわけですけど。でも、いずれにせよ、個人が簡単にドメインサーバーを設置してインターネット常時接続できるという時代が目前であるのは確かなこと。それは実に驚異的な事態だということ間違いない。そういう時代でも、ドメイン名が文字列である限り、しかもアルファベットに限定された文字列である限り、リソースとしては有限であるから「早い者勝ち」というコピーに接続するということらしい。

 辞書・用語集(翻訳のためのインターネットリソース)をはじめたときに、独自ドメインを取ろうなんていうことは考えてもいなかった。実際あれをはじめたのは、その頃の仕事がたまたま翻訳で、その文書の中の語義で判らないものがあって詰まっていたときにインターネットで語彙の検索をするための簡単なリンクリストを作ったことがことの始まりに過ぎません。その原初的なリストは今でもこのサイトの「私的リンク集」の中に保存されています。

   それでも結局、kotoba というドメイン名を取得することになったのだけど、全くもって畏れ多いドメイン名です。先月の終わり頃にJPNICのDBでそれが「空き」であるのを知ったとき背筋に走るものがありました。トルーキンの「指輪物語」に「所有するものは所有される」という金言がありますが、ことば、という語彙は私のようなLWフェチな者にとっては「指輪」そのもの。うーむ。ドメイン取得したとたんに取得されてしまった。という変な気分がずっと続いているわけです。




●指し示し(99/7/27)

 辞書・用語集のリンク集とウィトゲンシュタイン嗜好と無関係ではありません。思い起こしてみると、ウィトゲンシュタインが存命中に出版までこぎつけた著作は3作。『論理哲学論考』と『フレーザーの金枝編について』そしてトラッテンバッハの小学校教師だった頃の『辞書』。

 あのページで私がやっていることは辞書作りではないですし、世の辞書や用語集を寄せ集めて百科辞典を作ろうとしているわけでもありません。私自身の役割は、ある種の言語行為がなされている場所を指し示すこと。それだけで十分だと考えています。それも専門家が専門用語を駆使している場所を指し示すこと。あるいは、ある種の言葉遊びが行われている場所を示すこと。言葉遊び=言語ゲーム。

 インターネットを現代における壮大な言葉遊びの空間として見つめたとき、いわゆる検索エンジン的な視点からそれを見るのではなくて(文字列一致検索を基本とした視点にとても違和感がある)、もっと違った割り切り方があるのではないか。と考えたときに、「辞書・用語集」を軸にして見る視点があるかな。と思いついたわけです。人には、というか大人には、どうもある種の傾向があるようです。つまり、初心者を眼前にすると何かを教えたくなる。というような傾向。専門分野である一定の水準に自分が既に達していると自覚的になっている人々は、おおよそにおいて啓蒙的な傾向を示すようで、その現われが「辞書」とか「用語集」とかになって表出してくる。その意味でよく出来たサイトでも用語集を欠いているサイトはまだまだかな。とみてもよいかもしれない。そういう意味で、インターネット上で一番目につく用語集は実は「インターネット用語集」だったりする。のですね。

 そういう傾向はたぶん自然な傾向で、それをとやかくいう必要はありません。むしろ、用語集のありかを指し示すことだけで、ある分野の峰の高さを測ることができるのではないか。という期待感があるわけです。ある分野ごとにそうした「用語集」をまとめて並べてみることで、ちょっとした知的山脈を見出すことができるのではないか。と考えているわけです。

 まだまだ、今の収集データ程度では地図の海も山もその境が定かではありません。たぶんもう一桁二桁URL収集が進まないとダメで、そうすれば何か稜線らしきものが見えてくるかもしれない。そんな期待感があるのでやってられる。という感じです。




●カテゴリーについて-1- (99/7/31)

 たぶん、カテゴリーについては今後、何度も触れ再考することになると思います。今回はその第一弾。

 辞書・用語集リンクの中ではカテゴリーとカテゴリと使い分けています。前者は我々以外の他者・他社のカテゴライズの結果あるいは一般的な用語法に対して。そして後者の「カテゴリ」(音引き無し)は我々の語法として。どうしてそのように分けているかといえば、前者の語法の妥当性の検証はひとまず置いておくとして、我々自身のカテゴライズについてのみここで言えば、その基準や妥当性に関して我々自身、納得していない。納得できていない。それでも集約作業としての分類作業を行う利益はある(リンク集を古書回収の仕切り場のような雑然のままに放置しておく必要はない)ので ゴリ押しであることは認識しつつも、とりあえず分類枠を設けている。ということに尽きます。

 あまり巧い比喩ではないけれど、カテゴリーに対するイメージを言えば、パソコンのグラフィクス機能のデモ・プログラムに大きさや色の異なる円を高速に画面いっぱいに何百何千と描いて見せるというものがあるのですが、カテゴリーとはそのように描かれた円のひとつである。というのがおそらく誤解を含んでいるだろうけれど、直感的にわかり易いイメージといえると思います。
 コンピュータが円を描画する際のアルゴリズムとして考えられるのは、まず境界線としての円を描いてからその内側を塗りつぶす方法。もう一つは同心円を連続的にその半径が徐々に大きくなるように描いて円を描く方法とがあると思います。前者の方法は単純ですが高速です。後者の方法は時間がかかり、同心円であるという限定性はあるけれど、いろが微妙に変化する円を描くのには向いています。特に周縁部が限りなく透明に近くなるような円を描く場合。カテゴリーを分類基準として考える視点は前者のように周辺枠に注目する視点だということができます。また、あるカテゴリに分類したものをさらに詳細分類するという視点は後者の視点に似ている。ということができるかもしれません。

 全てのカテゴリーに明確な境界線となるような基準を設定・定義できるなら、カテゴリー分類は自動化さえ可能になるでしょう。隣接カテゴリー(分野)のカテゴライズにおいて、たとえば学会の区分けというのはある意味でそれが成功している例だということができるかもしれません。しかし、その隣接分野の専門家であるならそれは簡単であるとしても、専門的な理解をもっていなければ、そのカテゴリー区分に失敗する頻度は大きくなる....というよりカテゴリー分けと、学会とか業界の棲み分けとはずいぶん異なるはずなのです。

 目の前にひとつのオンライン辞書があって、他にも同種のオンライン辞書がある。例えばインターネット用語集のような。でも、編者や彼が運営しているサイトの性格によって同種の用語集でも趣はそれぞれ異なる。そういう「違い」があるという印象を経験上持たざるを得ません。ある用語集はホームページ作成に関連する用語を多く含み、別の用語集では通信プロトコルや公衆回線に関する技術用語に偏っていたりする。つまり、インターネット用語集といってもそれぞれのカテゴリー円は偏心しているので同一にはなりません。この例だけで結論を導き出すのは早急に過ぎますが、厳密なカテゴリー分けというのはとても難しい作業であるということだけはいえると思います。

 そういう意味で、分類枠を設定するということは、個人的にはとても簡単なのですが、それが他者の理解を得れるか。といえば、難しい点は多いはずです。また、それにもかかわらず、人は哲学用語集をインターネット用語集と混同することはない。という明晰さを備えてもいるわけです。つまり、カテゴリーの分類基準を明確に定義することは難しいが、カテゴリー分け自体は簡単にできる。という点に自然言語を理解する人間の不可思議さがある。のですね。




●カテゴリーについて-2- (99/8/1)

 数ある検索エンジンの中で、最も巨大なカテゴリー木でサイト分類を行っているのは、言うまでもなくyahooです。yahooのカテゴリー木の枝分れがどの程度の規模なのか知る由もないけれど、彼らのカテゴリー木が面白いのは、同一の小分類カテゴリー項目がカテゴリー木の枝のいたるところに現われてくる点です。そしてその小分類カテゴリーを文字列検索で引っ掛けると、大カテゴリー横断の検索結果が得られる点です。あるカテゴリーに属する項目が、整理分類システムの都合上、カテゴリー木内にばら撒いた点のごとく分散していても、検索の結果としてそれが集合してひとつの全体としてカテゴリー関連項目が表示されるという点です。

 コンピュータのシステムはUnix, DOS/Win, Mac 等など、おおよそ木構造型のファイル・ディレクトリ構造を基本としています。実はDOS(1.0)にしてもMac(MFS)にしても最初のバージョンでは木構造のファイルシステムはサポートしていませんでした。けれどもUnixの影響もあって85年頃には木構造形式のファイルシステムへ移行しています。木構造あるいは二分木(バイナリツリー)構造というのはコンピュータ・サイエンスの分野では最もポピュラーなアルゴリズムです。データベースの多くはこの木構造形式のデータ管理を採用しているわけでコンピュータから木構造的発想を除去するとOSやデータベースは消えて無くなってしまうかもしれません。

 現実的に木構造形式という手法がコンピュータシステムの開発のあらゆる局面で用いられてきたのは事実だけれども、木構造形式という形式が知識の表現に向いているか。という点には私はいくばくかの疑問があります。その疑問の種は実はLWにあるのです。一言でいえば、『論理哲学論考』と『哲学探求』の文体の違いがなぜ生じたのか。という疑問に対するひとつの解釈がその疑問の種だということです。

   『論理哲学論考』は哲学の著作としては類例がほとんどない程に徹底して木構造形式だけで著された著作です。それに対して『哲学探求』はそのような木構造的形式が全く放棄され、緩やかな差異を伴ったコンテキストの連続といった文体に移行しています。LWの前期・後期の大きな違いは実はこの2つの著作の文体という点で際立って明確になっています。私自身の解するところでは、LWはことばの理解について「家族的類似性」と「言語ゲーム」という「視点」で著作を著そうとしたとき、前期で採用した木構造的な構造性を放棄せざるを得なかった。ということなのではないか。という理解です。この議論については、暇があればいつか詳細に触れてみるだけの値打ちがあるものだと思うのですが、ここでは道標を立てておくだけにしましょう。

 そのような前提があるものだから、カテゴリーは木構造的形式を備えている。と断言するのはまずいと思うわけです。カテゴリーについてのもっと突っ込んだ検討が必要なはずです。でも現実的には、カテゴリー分類を行っているyahooを含む多くの検索エンジンでは重層的なカテゴリー木が採られているわけです。カテゴリーは上位カテゴリーと下位カテゴリーによる木構造で構成される。ということが全く自明であるかのごとく扱われているわけです。そのような形式を「間違っている」とは言わないけれど、再考を要する形式であることだけは確かなことだと私は考えるわけです。

 HTMLがサポートしてるリンクタグは、同一サイト内のページリンクに用いられる場合、多くは補足コメントの表現になります。つまりそれもまた木構造を補完する機能である。ということです。コンピュータにおける木構造形式に危うさと私が考えるのいくつかを列挙してみましょう。

・本来、関連性のある二項を全く無関係にしてしまうことが出来る形式である。
・木構造は主題とコメントの従属的な補足関係をうまく表現する。しかしこれはレトリック。
・木構造では横の連関をうまく表現できない。
・木構造の下位に何があるかを上位からは知ることが難しい場合がある。 
・誤った枝木の発見が困難になる場合がある(もちろん分類方法に依存する)。

 HTMLというスクリプト言語は、全くもって、『論理哲学論考』を表記するには最適の言語構造を有しています。全く涙が出るほど「論考的記述」に向いている。うーむ。
 しかしながら、表記したい知識が全くにおいてHTML系で表現できる。と考えたら、それはとても重大な誤りを含み持つことになるのではないか。という危惧感があるわけです。インターネット=HTMLは今や産業界・業界・学会をも巻き込む最強の知的パラダイムとも言えるわけですが、そこで可能なことと不可能なことを見極める視点が必要なのではないのか。そういう点で、LWが『探求』の文体に移行したとき、ある乗り越えがあったと私は考えるわけです。




●ことばの意味定義について -1- (99/8/2)

 ある種の議論が粉砕したとき、「それはことばの定義がなっていないからだ、双方がおなじ定義で言葉を用いれば議論は粉砕しなかったのに。」といった類のコメントが投げ出されることがありますが、私にはこの種のコメントはまったくもってナンセンスだと思えます。

 言葉の定義が定義として有効になるには、その定義から外れた用法に対してある種の規制が働く仕組みがその言葉の使用環境に伴っていなくてはならない。というのが言葉の定義を有効にする十分条件です。学校や教育システムにおいては教師がもつ指導権限のゆえに、言葉の用法がある非常に限られた範囲に収まる。ということは事実としてあります。そこでは生徒・学生にとっての教師は言葉の用法に対する規制として機能している。この意味で、上記のような表現は「用法の規制があれば議論は正しく行われたのに」というのと同意であると思うわけです。これだけなら言葉の意味を検討するということと全く関係がないわけで、それゆえのナンセンス。

 言葉の意味定義として表現されるセンテンス・パラグラフは、言葉の意味定義の必要条件です。これがなければ何も定義されること出来ないわけですから。しかし、そのセンテンス・パラグラフが定義として機能するためには、先にも述べた通り、その定義に異議を唱えるような輩を排除できるような権限を持つ何かと、定義に反するような用法に対して制裁を含む反撃を行えるような実力行使がなされる何かがなければならないはずです。

 インターネット上の辞書・用語集を数多く眺めてきて思うことがあるとすれば、そのほとんどが本文としてのコンテンツの理解を助ける目的で編集されたものであるということです。もちろん、definition とかdeclarationという語が用いられている場合も多いわけですが目的はコンテンツ理解の促進あるいはある分野の理解を助けるためのものです。唯一絶対の語義解釈として示されているような用語集は見たことがありません。ただし、辞書用語集の類がメインコンテンツになっているサイトでは、そのブラウズを特定者(登録者)に限定したり、採録語数を強調したりなど、少々雰囲気が異なるところがあるのは事実ですが。

 いずれにせよ、言葉の意味定義として表現された語義解説も、それを数多く並べてみれば多種多様ではあるけれどある程度の範囲で収束していることが見えてくるはずです。単一の辞書に頼りきらずに数多くの辞書にあたってみる。ということの意義はそこにあります。ひとつの学説に頼り切らずに多くの学説にあったってみる。ということとそれは似ているわけです。

 だから「言葉の定義」が問題になることはない。とも言えます(極論ですが)。語義解説だけでは定義としては不十分だからです。もちろん、ここでの議論も同様です。如何に言葉の定義の議論を行おうとも、この議論には何ら強制力が無いわけですから、定義にはなりません。




●台湾・中国・シンガポール (99/8/3)

 最近のパソコンに使用されている部品の中から日本製品を見出すことは年を追うごとに困難になってきている。大手半導体メーカーでもメモリ事業がお荷物になっている現在、CPUは言うに及ばず、主要回路部品、基板、その他諸々。唯一の砦はTFT液晶とモニタブラウン管程度。しかしこれも時間の問題かもしれない。何年か前、NHKは「電子立国日本の自叙伝」なる番組を放映し、日本のエレクトロニクス産業の隆盛を誇っていたけれども、平家物語の冒頭にあるように、今や「盛者必衰の理」の通りになってしまっている。

 10年以上前に仕事で台湾へ行き、若い世代のエンジニア連中と話をしたことがあるのだけれど、なんというか、先取・上昇志向・転職・英語が渾然としていた奴らばかりで気圧されたことを覚えています。実際には湾岸戦争の頃まではどうということもなかった。けれども、Windows3.0が出たあたりから雲行きが変わったのは確か。話をしたエンジニアの多くは(中国なまりが強かったけれど)英語をよく話したし、それが普通であるという風情だったわけです。あの感覚を持っている日本人エンジニアというのは実はとても少ない。その差がインターネットによってますます広がることを私は懸念せざるを得ないのです。

 インターネットの普及でもっともっと経済構造は変化して行くに違いない。ひとつ言えるのはそれは日本にとっては厳しい変化だ。ということです。つまり情報の流通速度が劇的に早くなることで、実は英語や中国語を含めて「翻訳している余裕」など無くなってくる。ということ。ある程度のマニュアルだと翻訳するために1~3ヶ月かかるわけだけど、それだけの時間があれば新製品も十分陳腐化してしまう。という時代に突入しているということなのです。だから翻訳無しで生産できる体力が無ければ今後は生き残れないだろう。

 そういう意味では、英語を正しく日本語に翻訳する。などというスタンスは旧態依然だといわざるを得ない。より大量の情報を翻訳作業無しで収集しできるだけ短時間で要約する。そういう体力を養っておかないと、生産設備を欠いた国際競争を勝ち残ることはできないだろう。日本語で考えるのは要約の時だけで十分だと思う。

 辞書・用語集のサイト名には「翻訳のための」という枕詞をつけているけれど、あれを付けていないと外国語サイトを混在させていることの言い訳がこの程度の長さになってしまう。そういう風情が日本のオフィス環境には確実にある。だから枕詞。
 日本人は日本語を日本語に翻訳しない。と同様に外国語も翻訳無しで理解できるのが普通になって欲しいと考えている。シンガポールでも香港でも台北でも、いい仕事をしている連中は翻訳なんてやってはいないのだから。




●ことばの意味定義について -2- (99/8/5)

 ことばの意味定義について -1- で記したことばの意味定義に関する考え方について少し検討しなおしてみよう。次のような立場を想定してみる。『ことばの定義が可能であるのは、ことばの意味には「本質的な」何かが確実に存在しており、それは「定義」によって決定的に明らかになる何かなのである。成功した定義があれば、ことばの定義はそれ自体で自立するから、外的規制の有無とは無関係である。』

 この立場は、いわばプラトン主義的なイデアリズムな立場だと言っていい。ことばにはその使用に先立って本質的な意味がある。というわけであるから。本質が明らかになっていれば、その使用は全て本質によって決定され得る。この立場に従えば、ことばの意味定義の粉砕を調停するような人間的な仕組みは不要でさえあるだろう。ことばの本質的意味を知る人には一切の疑念は生じるはずもないわけであるし、本質は本質であるが故に間主観的な理解を超えているのであるから。

 私には「定義」という語の用法にはこのイデアリズム的「本質」が見え隠れしているように思えますます。私はそういう類の「信仰」があっても別段驚かないけれども、それはやはり「信仰」の一種でしかない。としか思えません。「信仰」はそれを持つ人の信念や世界観の基礎付けになる。そして類似した「信仰」を有する人々の間での共通認識の基礎にもなる。それが「信仰」が有する社会的な意義であることは認めるけれども、「私が正しいと思うことは正しい」という域を越えない。このように考えることは悪しき「相対主義」だろうか?

 ことばの意味定義が可能かどうか。という問題をことさら取り上げるのは、それが人工知能あるいはその手前のエキスパートシステム(死語のひとつだと思えるが)の可能性に密接に結びつくからです。もしことばの意味定義が可能で例えばベジェ曲線のように意味定義を数式化することさえ可能であるならそれをコンピュータシステムへ実装するのは容易い作業になるはず。だからです。
 人工知能的なシステムの開発考案を行っている人々のアイデアの基礎には先の「ことば(あるいは物事)の本質は定義し得る」というイデアリズムがあように思えます。ミンスキーのフレーム理論のような考え方は、そうしたイデアリズム無しで成立するとは思えない。
 でも、「ことば(あるいは物事)には本質的定義が可能である」と表現し得るようなアイデアは同種の考え方を持つ人には説得的に機能するだろけれども、それは単に具体性を欠いたビジョン(幻影という意味も含む)に過ぎないのではないか? フレーム理論の戦略はルール枠の微細化を目指すことで「本質」に近似させることろに意義が有るけれども、そうした戦略がそもそもことばを伴う(判断)に通用するのであろうか?

   LW、あるいはLW的思考法は、実は人工知能派な人々からは評判がよろしくない。名前は忘れたけれど、人工知能批判の急先鋒な人々の中にLWの考えを楯代わりに使う人々がおり、顰蹙を売っていたのも事実。でも、実はそういうことはどうでもいい。我々は30世紀に住まう人間ではないのだから未来を想定した話はできない。我々ができることといえば現実的に利用できるコンピュータ環境でベストを尽くすことだけだ。ビジョンを持つのは各人の勝手の部類に属する。ビジョンには幻影も含まれるのであるからその正しさをとやかく言うことは控えよう。イデアリズムな立場でことば(あるいは物事)の「定義」の存在を主張することも同様に意義深いとは思えない。むしろそのような人々は、ことば(あるいは物事)の定義を数多く自ら行うべきだろう。そうしてみれば彼は定義を行う中で立ち止まることもあるだろう。そして彼はそこでことばを凝視することになるだろう。




●インターネットと人工知能 (99/8/7)

 辞書用語集のリンク集を編集する作業は単純で、サーフィンの最中に見つけた様々なURLソースを集約して実際に自ら当該サイトを訪れて、おおよそ概観して自ら試して、その結果を要約する。といことが全てです。これは誰でも出来る単純な作業です。要約といっても基本的にはいわゆる5W1Hを可能な限り明らかにするだけであるから、実を言えば当該用語集の背景的な専門知識を持っていなくてもある種ジャーナリスティックな扱いでまとめることができるものです。それだけの作業だからコンピュータで自動処理することだって可能かもしれない。

 しかし、現時点の技術で、そうした要約作業を行うことが可能なのだろうか? 私が欲しいと思うソフトウェアの要求仕様を以下に単項目に切り分けておくので、誰か暇な方がいらしたらぜひ作ってみていただきたい。

 ・当該WEBページの作者を識別するソフト
 ・当該WEBページの目的を識別するソフト
 ・当該WEBページのジャンル(カテゴリー)を識別するソフト
 ・当該WEBページの主題を識別するソフト
 ・当該WEBページの言語を識別するソフト
 ・当該WEBページの対象者を識別するソフト
 ・当該WEBページの構成・要旨を要約するソフト
 ・当該WEBページの利用方法を要約するソフト

 上記のソフトが作れてなおかつロボット検索のデータ収集エンジンと組み合わせることが出来たなら、最強のロボット検索エンジンをすぐにも作ることができるでしょう。インターネットは今や最強最大の知的パラダイムになっている現在、これらの要約プログラムこそが求められているものであるに違い有りません。




●データの自動収集とモラル(99/8/9)

 『なまず』という名前の全文検索エンジンがGPL準拠のfreewareとして配布されている。確かどこかのフリーウェア大賞にも輝いた画期的なソフトです。全文検索システムの核は、インデックスを生成する方法と、全文データの保存方法(SGML化など)にあるわけで、そういう部分が公開されているというのは、私のようなDB系のHPを運営するものにはとても興味深いものがあります。しかし、このソフトの絡みでデータ収集専用ソフトのホームページを見たとたん、疑問が沸きあがってしまったのです。

 それは、いわゆるロボット系のデータ収集ソフトで、httpプロトコルを応用し目的となるサイトのデータを自動収集するソフトであるわけです。サイトのファイルイメージをデータ収集者のPCのローカルなHDに収集してさらにインデックスを生成し全文データベースが出来あがる。検索すればローカルなHD上の全文イメージからいつでも必要なデータが取り出せるというありがたいシステムの構築が可能なわけです。
 私自身は、この種のデータ収集とその再利用はデジタルデータの「窃盗」にあたるのではないか。という疑問があります。さらにそのソフトのホームページにはそのソフトにも使い方やバグがあって、最悪データ収集先のシステムをダウンさせることが「頻繁」にあるとか。これでは、強盗致死傷ですね。刑法(240条)上は極めて重罪。死ぬのは機械だから別段問題にもならない? うーむ。こういうソフトが堂々とGPL準拠を謳っているのがなんとも。笑えません。

 辞書用語集リンクにもそうしたロボット系のデータ収集プログラム(私はHTMLプローブと呼んでいる)でアクセスしにくる人が幾人かいます。現時点では0.01%程度の割合だけれども、来られると非常に気持悪い。短時間に100PV程度の痕跡を残すので直ぐにわかります。じゃぁだれがそういうことをやっているか。といえば、圧倒的に大学と研究所(非公開IP)ユーザなのです。使う当人は技術的な問題あるいはアクセス時間の問題に過ぎないと認識しているのだろうけれど、これはモラルの問題、あるいは著作権の問題であるはずです。先のデータ収集プログラムのホームページには実は収集データの著作権に対するコメントは1行も書かれてありませんでした。うーむ。

 エンジニアは、原爆製造の彼らを含めてモラルの問題から切り離されたところで仕事をしてもよい。ということにはなっていないはずです。オウムのエンジニアも同様。でも、下手するとサーバーをダウンさせるようなデータ収集プログラムが平気で配布され再利用されている現状というのは、どこか変ですね。確かに人は殺さないかもしれないけれど、サーバーをダウンさせてしまうプログラムであるわけですから。インターネット的サリンを配布しているのと同じ。でも、作っている当人は間違っていることをしているとは思っていない。インターネットが仮想現実であるからこそ。ということでしょうか。

 全文検索エンジンというのは、データベースを作る側の人が利用する検索エンジンであるのだと思っていました。まさか他人の作成したデータをデジタル的に取り込んでデータベースを構築するなんていう手法があるとは。うーむ。そういう時代になるのでしょうか?




●『論考』とデータベース(99/8/11)

 私の最近のプロフェッションは何を隠そう、実はデータベースだったりするのです。特にSQL-DB。SQLも長い間使ってきたけれど、面白かったのはC++でISAMを書いていた時かな。手作りだったし、採算とは無関係でもあったし。

 そうしたデータベース構築の際に、『論考』は最後まで頼れるリファレンスでした。『論考』を神学的視点で読むというのも一つの視点だけれど、実はあれをデータベース構築のリファレンスマニュアルとして読む。という視点は最も実利的な視点であると今でも思っているわけです。
 データベースというのはとどのつまり、現実世界のデータをコンピュータ上の表現に完全な形で1:1の対応を持たせることが肝心です。これがデータベース設計の基本。データ構造の決定型がテーブル設計に厳密に反映していなくてはならないはずなのですが、現実的にはそううまく行きません。なぜうまく行かないか。といえば、一般的に設計者(人間)の論理的思考力に限界があること。また、SQL-DBを含めてコンピュータ側が頑なであること(笑)。システム要求があいまいになりがちであること。さらには、実装過程で行われる投機的プログラミングの結果ローカルルールが蔓延しがちであること等など。

 コンピュータは「電子計算機」であるので、数値計算という側面だけなら問題が発生する余地はほとんど無いのですが、その数値に特殊な意味付けがなされていると突然として問題とみなされるケースが生じて来ます。つまり意味付けを行う人間が問題を問題視する。ということです。コンピュータへの写像が失敗しているじゃないかというわけです。それは「DBに写像されたデータの論理構造」に歪みが生じているということでもあるわけです。

 『論考』でいう「事実が有する論理構造」は例えばテーブル定義でよく用いられるER図みたいな図でも記述しきれるわけではありません。そもそもLWの「事実が有する論理構造」とはそれ自体が記述の対象となり得ない何かであるわけですが、要素命題としてのテーブル定義だけではある処理全体の論理構造は記述されない。といった視点につながってくるわけです。これは一例。

 とりあえず『論考』でLWで述べていることがどうであるか。という「正しき理解」は棚上げにし、とにもかくにも『論考』を切り刻んで「データベースの哲学」なんていうものをでっち上げることが可能かな。という見通しがあります。もう九割方完成している原稿があるわけだから。ちょっと剽窃する勇気があれば誰でも書けるのに。誰か書いてくれないかな?




●カテゴリーと類義語(99/8/18)

 カテゴリーのことを考えるにあたって、類義語という概念を考慮しなくてはならない。類義語とカテゴリーは似ている。その違いは何であろうか?

 類義語は「似た意味」を有する2つ以上の語彙のことだと言える。カテゴリー(範疇)は、ある意味概念のおおよその境界線であると言えるだろう。類義語はリファレンスとなる語彙を基準としてその語彙の持つ意味に似ている「対象語」を「類義語」として関係付けることで類義語として位置付けることができる。類義語が類義語であるというためには意味概念が何であるか。とことさら説明することは不要である。語彙を2つ以上提示してそれらを「類義語」であると宣言すればそれで事足りるからである。これに対してカテゴリーは喩えてみれば意味概念の「容器」であるから、何がそのカテゴリーに属するかという基準が別途定められてはじめて機能する分類方法であると考えられる。このカテゴリーの実例としては、図書分類で馴染み深い「日本十進分類法」のような例を挙げることができる。

 カテゴリーと類義語の違いのひとつに、この「外的な基準設定」の有無。を含むことが出来るだろう。しかし、我々がカテゴリーのことを考えるとき、この外的な基準設定が常にある種「客観的」に存在している。という事態はむしろ例外なのではないのか。

 類義語とカテゴリーの違いとして、類義語は「語彙」のレベルの問題であり、カテゴリーはもっと大きなレベル、例えば「概念」とか「科目」といったレベルでの問題である。ということもいえるだろう。「実定法」と「判例法」は「法」というカテゴリーに属する。と言った場合、「実定法」や「判例法」が指し示す内容は実に多種多彩であるはずだからである。しかし、字面だけみれば、「実定法」も「判例法」も単なる「語彙」に過ぎない。ここにカテゴリーと類義語のマジックをみることができる。「実定法」と「判例法」は類義語であるということもできるからである。

 ある二つの「語彙」が似ているという場合、(LWはそれを「家族的類似性」といったのであるが)その「類似性」を定義することは可能だろうか。そもそも「類似性」なる概念をきっちり定義できるだろうか。そうした定義の可能性には大いなる疑問があるが、「不可能である」と断定することはとりあえず留保しておくことにしよう。というのも「ラフな定義」ならいくらでも可能だからである。このラフな定義というのは、定義を提示した途端に異論が沸きあがるような定義。という程度の意味である。そんな定義は定義ではない。という見方もあるだろう。しかし現実的に散見されるカテゴリーや語義を巡る意味概念の解説はそのようなものであるに過ぎない。 




●「概念」の類義語(99/8/22)

 ある概念の解明を行おうとしたとき、その作業は「哲学的」にならざるを得ない。けれども、そこで彼が「何」に関わろうとしているのか当人自身が不明の中でさ迷うということは往々にしてあり得ることである。これは「概念」という語彙の類義語はたくさんあるという意味においての混乱。

 「概念」に類似した語彙の全てを上げることはできないが、そのいくつかをここに例示しよう。「定義」、「理論」、「解説」、「説明」、「考え」、「意味」、「論理」、「本質」、「性質」などなど。

 先に、「類義語」は2つ以上の語彙を並べて「類義語である」と宣言すればそれで事足りると書いた。そこでは類似性を明証するような意味解説は特に必要とされない。でもだからこそ、ある語の語義解説を行う場合、類義語を並べてはならない。ということが言える。ここではそのような解説は拙劣であると見なすことにする。

 「概念とはある事例事態の定義である。」とか「概念とはある事例事態を説明するための理論である」とか等など。これらはほとんどトートロジー(同義反復)である。AはAである。と言っているようなものである。もちろん、類義語を反復することは語彙と語義解説の類似性の強調にはなるが、当の類似性はそれだけでは説明されない。さらに類義語間の相違点を覆い隠すことにもなる。だからこの種の語義解説はほとんど役に立たないし、相違点を覆い隠すという意味においてむしろ有害でさえある。さらに、ご丁寧にも主客を入れ替えて「定義とはある事態事例の概念をいう。」とか「理論とはある事例事態の概念の説明である。」とか。類義語の言いまわしさえ行われることがある。用語集の中にはそのようにして類義語の数の組み合わせで採録語数を稼いでいるものが実際にいくつも散見される。

 語義解説を行うべき対象となる語彙の語義解説をその類義語を用いて解説することはこの種の拙劣さに陥りがちである。これは全ての用語集に付きまとっている危険性でもある。ところで、ここでの本題はもっと深刻な混乱について触れることである。つまり、「概念」あるいはその類義語である「定義」、「理論」、「解説」、「説明」、「考え」、「意味」、「論理」、「本質」、「性質」といった語彙相互の語法を節操なく混在させることから発生する混乱である。先の類義語利用による語義解説は一読した限りでだけでは「わかったような気分」になる場合もある。また場合によっては例えば「MS-DOSとはPC-DOSのこと」といった解説が「理解」を生じせしめなかったとしても、それが深刻な問題を発生させるとまで考え無くてもすむことも多い。しかし、「概念」やその類義語相互の語法の混乱は深刻な問題を生み出すと考えている。それは「知」の扱いそのものであるから、それらの語法が混乱に満ちている場合、その語法で語られることがら全体(知)がある種の崖淵に立たされる(あるいは崖から既に転落している)ということを意味する。からである。

 もちろん、これは語る側の問題に留まるわけはない。読み手の側にも類似した混乱が生じる場合があるだろう。単なる解説を「理論」と受け止めてみたり、「本質」解明の努力を個人的な「考え」として聞き流してみたり。という場合がそれである。 

 詰まるところ、結局、この混乱を見定めるための基準は一切明らかでないと思える。言いかえれば、究極的に正しい「知」の表現はどのようであるのか。という表現方法を我々は知らない。たとえ「彼」がそれを知り抜いているとしても、君や私にそれを理解できる可能性が残されていなければ「彼」がそれを知っていることになんらの意味も意義も見出し得ないだろう。これは不可知論者のペシミズムそのものであろうか?

 例えば、「人工知能をマシンに実装するためには、少なくとも仕様だけでも完璧な「理解のアルゴリズム」が記述されていなければならない。」だろう。ということに類似した意味において、場合によってはゴールに立たなければならないということがあり得る。想像することも困難であるが、このゴールとは、例えばDNAの設計仕様の決定者の立場に似ている。

 率直に過ぎる不可知論的なレトリックの泥沼から這い出すためにも、また自滅的なお馬鹿な議論を持論から払拭するためにも、類義語の使いまわしへの無頓着さとは常に敵対していなければならないだろう。また類義語への無関心さから発生する「カスカスな議論」への転落を防止するためにも、使用する語彙の周りには転落防止のための柵を設けておく必要があるだろう。範例がないからといってそれを不可能と思いこむのはあきらめである。精密な議論とは、語義定義の積み重ねでなされるものではなくて、この種の混乱を排除する努力の賜物として、結果として現われてくるものなのではないだろうか。




●子供の「なぜ?」という問いに答えれるか?(99/8/23)

 子供の問いに答えれるか? もちろん、「漢字の読み」のようにすぐに答えれる問いもあるだろう。けれども、「なぜ?」という問いには、ほとんど答えることができない。「なぜ?」という問いを「どうして?」という問いに無理やり聞き間違えて答えることならできるだろう。「なぜ太陽は東から昇るの?」という問いを「どうして太陽は東から昇るように見えるの?」と置き換えてしまうという答え方である。

 「なぜ?」という問いは、「理由」を尋ねる問いである。と一般には解されている。天文学的な知識を総動員すれば、地球が太陽の周りをどのようにして回っているか。という事態を説明することは可能だろう。しかし、地球が太陽の周りを回る必然性のごとき理由を説明することは可能であろうか?
 この「なぜ」という問いに潜む情動こそを見つめる必要がある。理由を求める心にこそ応えなければならない。「なぜ」という問いを「どうして」という問いに置き換えて、その出来事の過程を説明するというのはひとつのやり方であろうけれど、たぶん、それは答えになっていない。

 だから、もし子供向けの本を書くならば、「なぜ」という問いをそこで展開してはならない。もし、君がその問いに答えることができるなら話は別だ。また「どうして」という問いを書くのは自由だが、そんな本を子供は読まないであろう。多くの子供は「どうして」という問いへの答えにはうんざりしてるはずだから。

 大人になるということは、「なぜ?」という問いかけの感性を失うことである。と思える。なぜという問いにきちんとこたえてもらった。という経験の少なさが、その問いを発することを躊躇わせ終いにはそのような問いかけをすることを忘れさせてしまう。そういう大人が子供が発する「なぜ?」という問いにまともに答えれるはずがない。

 「なぜ?」という問いの中にも、理由を答えれる問いと、理由を答えれない問いの2種類がある。もしリハビリテーションを始めるならば、理由を答えれる問いから始めて自問自答してみるのがよいかもしれない。なぜ、この文章を読んでいるのか? なぜこの文章を書いているのか?

サーフィン途中で見つけたホーキング博士のクォート(99/8/24)
http://naturalscience.com/dsqhome.html
Hawking, Stephen W. (1942-) b. Oxford, England
Even if there is only one possible unified theory, it is just a set of rules and equations. What is it that breathes fire into the equations and makes a universe for them to describe? The usual approach of science of constructing a mathematical model cannot answer the questions of why there should be a universe for the model to describe. Why does the universe go to all the bother of existing?

Stephen W. Hawking, A Brief History of Time: From the Big Bang to Black Holes, Bantam, NY, 1988, p 174.





●モードレス・コンピューティング(99/8/25)

 もう何年も前の話になってしまうのですが、現在アップル社の暫定CEOであるスティーブン・ジョブスが当時のアップルCEOギルバート・アメリオに紹介されてアップル社復帰の演壇に立っての講演で、彼がオブジェクト志向プログラミング(それはNeXT社の主力商品だった)に触れたとき、「オブジェクト・プログラミング、それはラリー・テスラー氏ならよくご存知のはずですが...」とコメントしたことがあり、それに実に深い印象を受け感慨を覚えたたことがあります。このコメントを聞いたときには唸ってしまった。

 ラリー・テスラーという人は、かつてかの有名なゼロックス社パロアルト研究所の研究員だった人で、これまたつとに有名なアラン・ケイの元同僚。研究所では主にビジネスコンピュータの利用技術の研究を行っていた人です。MacやWindowsでも当たり前に採用されているCut & Paste のユーザインタフェースは彼の考案になるものだと言われています。米BYTE誌が80年8月号で特集したSmallTalk特別号では約40頁に近いユーザインタフェースに関する論文を寄稿し、一般的読者がゼロックス社のAltoコンピュータシステムのビットマップディスプレイについて知るほとんど唯一の機会を提供したことでも知られています。

 その論文(といっても雑誌寄稿の文章だから読み易さのためのアイキャッチもあり、ガチガチのお堅い文章ではない)では、冒頭から、コンピュータの「モード」はどうして「抹殺」されなければならないか、そしてその「モード」を圧殺した具体的な研究例としてAltoのGUIが図版入りで詳説されていたわけです。

 その文章が雑誌上で発表された時点で彼はすでにアップル社に移籍しており、たぶん現在でもアップル社にいる。おそらく、アップル社の社員としては最も在籍年月が長い社員(役員)の一人であることは間違いありません。その論文以降、彼は主にObjectivePascal開発などをはじめとするアップルのオブジェクト志向製品の開発研究を牽引してきたのであり、言ってみれば、ジョブスが最初に彼とであった時(マクーラ、スコット、ウォズニアックらとゼロックス社を最初に訪れAltoの操作デモを見学したときの案内役がテスラー氏だったといわれている)以来、ジョブスは常にテスラー氏の弟子であったということです。そしてNeXT社を率いてアップル社に復帰したとき、彼がNeXT社でやってきたことは、もしジョブスがアップルを辞めていなければ彼の師であるテスラー氏と共々やってきたはずのことである。というある種の感慨がその復帰講演での一言に読み取れたというのが事の次第というわけです。

 「モード」がコンピューティングに何をもたらしているか。ということはたぶんいまさら説明する必要もないと思えます。GUIベースのOS、特にMacOSはこの「モードレスコンピューティング」の賜物なのであって、モードレスという語をキーワードにすれば、アップル社の製品、特にジョブスが復帰して以降のiMacも大昔のThin/FAT Macも実はハードウェア的にモードレスを実現しようとした試みであったと読むことができます。もちろん、オブジェクト志向言語の多くはクラスの継承性を実現することでプロシージャ独立型の構造化言語と一線を画したモードレスに馴染む志向を持っている。といえるわけです。うーむこれは贔屓の引き倒しかな。しかし、モードレスという考え方にはとても深いものがあるように思えます。モードガチガチの文体である『論考』に対するモード無し文体の『探求』の体温差。というような予感があるわけです。

 モードレス・コンピューティングの基本は、「使い得る機能はすべて表示し、やむを得ずモードを導入する際であっても、その中で使い得るもの、使えない機能を明示的に表示する」というメニューシステムに端的に表現されます。もちろん、全ての機能が常に使える状態が理想であるけれど、やむをえない場合があるのはしょうがない。としても、使えない機能が使えないままに恒常的に操作が継続されるということは問題ありと考えられるのです。最近になってようやくコンプリートした任天堂64の「ゼルダの伝説」もこのユーザインタフェースという観点から見てとてもよく練られているなという印象を受けました。

 例えば、ある種のメニューシステムで、トップメニューに戻らなければ別の画面に行くことができない。というアプリケーションは実に多い。インターネット上のWEBページでもその種のページは星の数ほど存在しているわけです。これに対して左サイドに分岐メニューを備えたフレームページは、この意味ではモードレス表示を志向しているということができるのですが、フレームページが問題なのは、フレームページ自体がデータ表示を妨げるモードエリアに堕しているという点です。
 あの「辞書用語集」では、この観点から全てのページにおいても他の全てのページへ移動できるような配慮をしています。しかし、左サイドのエリアが無駄エリアになっているという欠点はフレームを利用していないにも関わらず踏襲しているわけで、まだまだ改良の余地があります。もちろん、それは現時点でのHTMLの仕様がメニューシステムに対しては極めて貧弱で柔軟な表現ができない。ということもいえるわけですが。

 私のユーザインタフェースに関する評価の基準や視点は、上記のような観点、つまり、それが如何にモードレスであるか。という点に尽きます。それは「マウスのクリック数」で相対比較することさえできる客観的な基準でもあると思います(もちろん同じ機能を実現する際にクリック数が少ないアプリケーションやWEBがより優れていると評価できる)。
 この視点は、IBM-PCがこの世に登場する以前からしっかり考えられてきたアイデアであり、さらに現在のGUI主流のコンピューティングはそのアイデアの延長線上で派生してきたとも言えます。ただし、派生は派生で伝言ゲームの一種。この種のコンセプトについて皆が自覚的であるかどうかはまた別の問題ですけども。

ちなみに、テスラー師はジョブスがアップル社復帰直後に退社したようです。彼のサイトは modeless.com まさに彼らしいというか、三つ子の魂百までも。というかですね。(2000/3/23) ちなみに、このURLは現在売りに出されています。もう彼も赤い彗星のように「過去を捨てた男」になったのでしょうか?(2000/5/10)




●正しい翻訳と文法的な正しさ(99/8/26)

 「正しい翻訳」とか「活きた訳文」といった表現を見うけることがあります。また、「文法的に正しく訳された文章」といった表現もあります。私はそういう視点を否定しないし、自身の語学力向上のためには必要な視点であるとも考えています。しかし、あたまに「やむを得ず必要」を付けてしまいたくなる。

 「人は、無理解・誤解を通して理解へ至る。」のであるとすれば(その後に「しかし、真の理解には至らない」と続ける人もいるかもしれない)、我々の現在の立場は無理解や誤解に満ちているわけで、「正しい翻訳」というセンスを身につけることも重要だけれどその前になすべき事はたくさんある。願望を言えば、少なくとも自身の中から「無理解」だけは放逐したい。根が欲張りなので「あれかこれか」ではなくて「あれもこれも」という状態をキープすることに忙しい。だから英語の文章を読む際にも正しく日本語に訳してから、などというまどろっこしいステップはいつも省略しているのでなかなか「正しい翻訳術」という技術が身につかないでいるというわけです。

 日本語でこうした文章を書いているとき、日本語の文法をリファレンスにすることはありません。でも(だから?)、書いた文章を読み直すと、変な表現がたくさん目につくし(^^; リズム無茶苦茶という部分もたくさんあるわけです。そういうところは直したいと思います。翻訳技術以前の問題として文書作法が問題となる場合のほうが個人的には大きい。まっとうになるにはやはり修練が必要なのであって、テクニックだけでどうにかなる。という類の問題ではないように思えます。

 ということで、「翻訳の正しさ」に関する薀蓄とは無縁であったりするわけです。無縁なのでそうした文章やそうしたサイトに対してコメントも評価もできない。これは一種の「無能」なのですが、致し方がありません。まだまだ修行が足りない。ということなのですね、きっと。




●テッド・ネルソンのザナドゥシステム(99/9/11)

 テッド・ネルソンのザナドゥシステムのソースコードがオープンソース公開された。というニュースを最近聞きました。ザナドゥ・システムはインターネットあるいはHTML/WWWの先駆けだと評され、この意味では長年注目を浴び続けてきたプロジェクトでした。しかし長い間、それは噂で有り続けてきたし、まだ開発が完了したわけではないからオープンソースとなってソースコードのたとえ一部を見ることが出来たとしても、それは噂のままになるでしょう。コンピュータ業界というのは「動いてなんぼ」の世界なので、それが学術的に価値があるものだとしても動き出すまでは評価されるとは思えません。

 テッドネルソンは、日本のPC雑誌では、彼はいわゆる「ハイパー・リンク」の考案者として紹介されてきました。いわば、原稿や文献と他の文献とをコンピュート連携させてネットワーク化された知識データベースを作成するシステムの基本が「ハイパー・リンク」で、その考案者だというわけです。Macinntoshには今ではずいぶんと時代遅れになった感がある「ハイパーカード」があります。それはスタンドアロンでクローズドな「ハイパーリンク」環境でした。雑誌などでは、あれもそれもこのテッドネルソンのアイデアに影響を受けている。というわけです。彼は60年代からネットワークを意識していた。ということである種預言者的カリスマでもあったわけです。

 けれども、あの種のハイパーリンク、言い換えれば「直示的参照連携」とも訳せるアイデアは何も彼に始まるわけではないはずです。例えばLWの論考の4.1.1.2

哲学の目的は、思想の論理的な浄化にある。
哲学とは理論でなく、行動である。
哲学の著作は、本来、注釈から成り立つ。
「哲学的な諸命題」が哲学の成果ではない。それらの諸命題の明確化に哲学の成果がある。
哲学は、放置しておけば、いわば曖昧模糊のままである思想を明瞭にし、それに明確な輪郭をあたえる義務を負う。


 上記で引用した文章で着目すべき点は「哲学的著作は注釈である」という記述です。この点は、LWの『論考』の文体を端的に言い表しています。同様にHTMLのタグがいわば注釈関係を極めて多様に表現し得るスクリプトである。という点を考えれば、この一文をLWによるHTML評価である。と考えることもできます(もちろん『論考』時代にHTML環境があればの話ですが)。

 しかし、LW自身はあの種の注釈関係を端的に表現し得る『論考』の文体を後年、自ら放棄している。という点が重要です。私にはとても重要に思われます。論理的思考という思考方法を重要視するならば、さらに言えば論理的思考方法を絶対視するならば、ハイパーリンク、あるいは論理インデントによる知識表現は最良な表現方法かもしれません。ところが、そうした論理主義はある観点から批判の洗礼を受けなければならないと思われます。つまり、人間の普段の思考方法はそのような論理的なインデント、あるいは注釈だけですませることができるのか。というとても日常的な観点で見直してみる必要があると思われます。

 大昔のソフトウェアですが、先駆としてのLivingVideoText社のThinkTank128/512 あるいは MORE。といういわゆるアイデア・プロセッサの系列がテキストエディタの変種として常に商品化されてきました。日本でもASCIIの「アイドック」とか「ハイパーX」、最近では一太郎にもその種の機能があるし、MS-Wordは標準的なインデント機能だけでなく、マクロを多用すればWindowsのヘルプメッセージのごときハイパーリンクを設定できるわけです。しかし、MS-Wordや一太郎は別格としても、アイデアプロセッサの多くは商品として大成功を収めたことはあまりなかった。のです。市場経済の中で判断すれば、それらのアイデア・プロセッサは受けなかった。ということが言えるかもしれない。

 ここでアイデア・プロセッサとして一括したものは、いわゆる自動インデント機能を備えたエディタです。もちろん、インデントは文脈中の注釈関係を明確にするために利用されるものです。ハイパーリンクは、その注釈関係を外部のテキスト、全然別個のテキストへ拡張する機能で、拡張的注釈機能とも言えるでしょう。テッドネルソンは、その注釈関係をスタンドアロンなマシンを飛び越させて世界中のコンピュータレベルでドキュメントの注釈関係を持たせようとした。というわけです。

 でも、注釈関係を最重要視することには変わりがありません。

 アイデア・プロセッサが市場で消長を繰り返してきた事実を振り返ると、私にはそうした注釈重要視型のエディタは、実は市場でさほど評価されていない。つまり、多くの人はあの種のエディタをさほど必要としていないということを実証しているのではないかと思われるわけです。それは統計的な意味で、普通(?)の人間は文章を書く際に注釈関係の明瞭化なんて要求しないということでもある。もちろんそうした需要があるのも事実だけれどそれは比率の問題でしかない。

 LWは、『論考』から『探求』へ文体をあのように変更したとき、この問題に気がついていたはずなのですね。つまり、思考を明瞭化することには、必ずしも「注釈型文体」は必要ではない。ということに。ということです。

 だから、テッドネルソンの「ザナドゥ」が仮に完成したとしても、それは一種のアイデアプロセッサであるから、過去の同種の製品と同じような運命を辿ることになるのではないか。そう思われるわけです。というか、長年(実に長い間)そう思いつづけていても、彼の製品は完成してこないし....。最初にThinkTank512を店頭で見て、その後個人輸入で実際にMORE1.0を買って試したとき、後ろに吹っ飛ぶほど驚いたけれども、それは成功しないだろうな。と思ったものです。MOREはバージョンが上がるにつれ、プレゼンテーション・ソフトウェアに変質していきました。そちらの側にこそ需要があったからですね。プレゼンテーションは論理的な美しさが要求されるから...。

 HTMLも一太郎もMS-WORDも結局、「普通の文章」も扱える。というところで支持されている。もちろん、アイデア・プロッセッサ的な機能が付いていても構わないけれど利用現場ではさほど使われていないはずです。

 普通の文体つまり「トイレットペーパー」的長々文体と論理的文体、その両者が共存できるような知的編集環境、あるいは知的ネットワーク。インターネット/WWW環境はこのように実稼動しているわけです。たぶん、思考の明晰化というのは命題・フレーズの注釈の徹底だけでもたらされるものじゃないはずなのです。そう言う意味で、テッド・ネルソンがもてはやされ始めたMac/HyperCardの出現時(88年頃)の時の印象、つまり「ザナドゥ」はさほど支持されないだろう。という印象は今も変わりません。むしろ、そうしたアプローチは出発時点で既に失敗の種を孕んでいたのではないか。というのが率直な感想です。

http://www.udanax.com/

●じゃぁ、お前のやっているリンク集は何なの? あれだって、ハイパーリンクしているだろうに。
■うーむ、そうかもしれない。違うかもしれない。あれは単なるリンク集で、注釈リンクじゃないから。本を並べている書店とさほど変わらないイメージなんだけど。
●じゃ、サイト・コメントとかその中のリンクは?
■解説と注釈とは違うだろう?
●注釈は解説じゃないっていうの?
■だから、注釈的思考法だけで人間はものを考えないの。でもそれがダメというわけじゃないの。
●ハイパーリンク=注釈=限界あるよ説って何か変だぞ!
■うーむ、だから、僕は、少なくとも私は、注釈的思考法だけで考えてないの。何度も言うけど。
●うー、やっぱりなんか変、お前の発想!
■ま、だから、もっと明晰に考えるようになりたいって、以前から言っているわけなんだけど。
●そりゃ、話にならん。(END)





●リンク集は自ら光ることはない(99/9/13)

 リンク集はコンテンツ足り得るのだろうか? と考えたときに、やはり、そういうことはなかろう。というのが結論と言うかリンク集の宿命だと思われます。やはりしっかりしたコンテンツのあるサイトに行き、それを読んで理解して、さらに不足があれば関連サイトを見て回る。というのが本来のサーフィンのあるべき姿だろう。だから、リンク集をベースにサイトを見て回る。というのは何か欠落してしまう。

 それは、リンク集を作る視点というものがそもそも視点としては不充分だからということに尽きるわけです。他のリンク集サイトの管理者がどういう視点でいるか。という点に私は興味はないけれども、振り返ってみると、リンク集を作るという行為それ自体が自己目的化してしまったときに、ある種の逆噴射が始まる。ということがあるわけです。超越論的視点でものを語り出したりするわけです。ここの一連のスレッドの主のごとく(^^;。

 たぶん、そういう嫌な部分を払拭するためには、サイトリンクの数が最低でも数十万程度に達しないとダメだろうと思えます。500~10,000程度という数が一番危うい。

 でも、現実的に言ってロボット収集でも行わない限り、100,000という数のURL収集を手作業で行うのは個人の力だけでは不可能です。5年10年という歳月をかければできるだろうけれども、サイトは生き物だから。

 そういうことで、リンク集をみつけたら、テキトーに利用されんことを。まぁ言う必要もないことではあるけれども。それと、その種のサイトの管理者の言うことには耳を貸さないこと。自分自身が何に関心を抱いているのかということだけに関心をもたれんことを。さもないと、無駄な暇つぶしを強いられることになるかもしれません。






●LWの文体あるいはカート・ボネガット(99/9/14)

 私自身の文体は、ずいぶんと以前からこのような文体、つまり、パラフレーズの間に一行入れてパラフレーズを連ねる。という形式に落ち着いています。『探求』のそれに似ているかもしれないけれど、むしろ実を言えば、カート・ボネガットの文体に似せて書き始めたのがだんだん変形してきた。というのが正直なところです。LWを読む前はずっとボネガットを読んでいた。そういう時期があったのです。

 ボネガット、『スラップスティック』以前は名前の終わりに「ジュニア」がついていましたが、日本では長年、早川書房が版権を保持しているために、「SF作家」の範疇に数えられている作家です。作風自体はSFだけれども、純然たるSF作品というのは考えて見ると一つも無いのじゃないか。読み始めたきっかけというのは、なんというか、ピンクフロイドというロックバンドの『狂気』というLPのライナーノーツにあった今野雄二という評論家のデビッド・ギルモアに対するインタビューで、「今何を読んでいるの?」という質問に彼が「ボネガットのスローターハウス5だよ」と答えた文章があって。という程度のものです。

 でも、あの『スローターハウス5』は傑作だと今でも考えています。ボネガットの文体は、この『スローターハウス5』以前は、まぁ普通の文体だったのだけど(『プレイヤー・ピアノ』とか『タイタンの妖女』とか)、『スローターハウス5』から『スラップスティック』に至るまでの間は特に、パラフレーズ細切れの文体で、なおかつ、パラフレーズの間にアイコンならぬ挿絵が挿入されて、文脈をガラッと切り替えるという特異なものでした。『スローターハウス5』ではパラフレーズ毎に時間軸が吹っ飛ぶというSF的なストーリー展開も加味されて、独特の味わいがあるものです。

 『人間は論理的思考を5分間という間でさえ続けることはできない。』といったのは誰?

 そうした文体がなぜ馴染んだのか。多分にTVで育った我々の世代は、基本的に30分以上の連続的物語に耐えられないように訓練されていて(笑)、実を言えばもっと短い場面変化に馴らされている。たとえばニュースショーとかで。そういう我々の情報取得感覚というのは、もうバラバラ細切れがデフォルトだから。という意味で、ビクトル・ユーゴーとかトルストイとかそうした19世紀的な大長編的文体には耐えられなくなってしまっているのじゃないか。と思えるわけです。等など。

 実を言えば、このボネガットの小説の中の登場人物に、ローズウォーターという人物が出てくるわけですが、彼は変人で、大金持ちのはずが、あるとき全財産をぱっと寄付してしまう。という聖フランシスコ症候群的行動を示している点で、もしかすると、これは同様に鉄鋼王であった父親の遺産受け取りを放棄したウィトゲンシュタインがモデルじゃないのか。と思える節があります。彼のアイコンを挟んだ細切れパラフレーズ文体をあの「世界はこの様に見えるわけではない(視点・世界観図)」を挟んだ『論考』や「あひるうさぎ」を挟んだ『探求』と比較して見ると、それはとても良く似ているわけで、"so it goes" と事実の流れへの無抵抗(無常)感を示すボネガットは案外、ウィトゲンシュタインに影響されたのかな。と。モンクは彼のLWの評伝の中でN・マルコムがコーネルの演壇でLWを会場の皆に紹介したとき場が騒然とした。という伝えを書いているけれども、二次大戦直後のアメリカでのLWの受容は、主に『論考』だけが公にはしられていたものの相当の影響力があったことがわかります。ボネガットがもし哲学に惹かれるところがあったとすれば、当然、LWを読んでいたはずなのですね。

  調べてみると、ボネガットはコーネル出身で文化人類学専攻。ウィトゲンシュタインがコーネルで講演した年にはシカゴ大の大学院にいたけれども、コーネル大では学内新聞の編集者でもあったボネガットがその講演を直に目撃した可能性は十分あるのです。

 ニクソンからフォードの時代、日本でも書店の洋書コーナーにある回転金属フレームのベストセラー棚はこのボネガットのペーパーバックで埋っていました。それで、80年だったか、79年の群像新人賞を取った村上春樹の『風の歌を聴け』は、プロットから文体から、ボネガットのパクリと言えるくらいに似ているわけです。キルゴア・トラウトに似たSF作家とかも出て来たりするし。

 そういう意味では、初期の「ねずみ三部作」というか、『風の歌...』から『羊をめぐる冒険』の3作というのは、ある種、このパラフレーズ細切れ文体なので、好きなのです。

 LW自体は、パラフレーズが細切れであっても、その連続したパラフレーズ相互にはさほど断絶がないわけです。しかしボネガットのパラフレーズの間にはかなりの「かっとびぃ~」があるわけです。類似しているけど類似していない。

 インデントベースの論理的文章に対するカウンター文体としてのパラフレーズ・細切れ文体というものがあるとした場合、そういう文章を書くには「アイデアプロセッサ」的なインデント編集機能は不要どころか邪魔な機能だと言えます。LWはそうした文体で交響曲的な大長編を書こうとした節があるけれど、それ故に『探求』はある意味で失敗しているのかもしれません。
 TVやインターネット全盛の時代において、我々が接する今日的情報というのは、全てが全て細切れで、そもそも大長編のようにつなぎ合わせることができなくなってきている。と考えると、実は文体はまだまだ今日的だけれどその文体では大長編は表現し辛い。それは難点ではなくて、まさに今日的なのではないか。「レ・ミゼラブル」のような長編も、短い場面のつなぎ合わせで再構成すれば、ミュージカルの「レ・ミゼラブル」のように理解され易く、ロングランをいまだ続けることもできる。ということはあると思います。

 文体は表現すべき思想の外枠に過ぎない。と思われがちだけれど、軽視されてはならないと考えます。それは思想の骨組みを構成するなにかです。だからそれを見損ねると思想全体が見えなくなる。ということがあり得ます。逆に文体に無頓着であるような思想が何かを伝えれるのだろうか。WEBのページ構成も同様。だから、何を書くかだけでなく、どのように構成するか。ということはとても重要なことに思えます。DTP的な構成とはまた別に。ですけど。




●自分の書いたものだけを読む(99/9/15)

 半年くらい前に読んだ、ジョン・ロールスの入門書で、筆者の川本隆史さんがジョン・ロールスへのインタビューの中でロールスは「『わたしはロールズしか読みません』というわけでもないのですが」との一文。続けて、論文の推敲に追われていて中々読書している暇が無い....。

 自分の書いたものだけを推敲のために読む。ああ、これが基本かな。と最近思うようになっています。まぁ、私は文筆家ではないので、そもそも読みなおすべき原稿なんて言うものもほとんど存在しないし、またあったとしても、ここのガラクタのごときで推敲不能。という悲惨な状況があるというものの、自分の書いたものを読みなおして、何が変でどこがおかしいのかを考える。ということにはとても意義があるように思えます。

 読書というのは、どんな場合でも、読後にある種の混乱が訪れるものです。書き言葉を通じてではあっても、異なる世界観や価値観、新たな事実認識などで自身の世界理解に揺れが生じる。ということがその原因です。もちろん、その揺れは、そもそも自身がある程度「確固」たる世界観なり価値観を持っている場合にこそ生じるのであって、浮き草のごとき世界理解しか持たないなら、そもそもが揺れている世界観に揺れが新たに生じても何がどう揺れたのか自身では観測不能。ということはあるかもしれません。

 絶対位置としての自身の世界観を確定する作業。などというのはとりあえず目指さないとしても、相対的にどこにいるのか。その程度は掴んでおいても損は無いと思えます。職業的文筆家なら、自身の居場所としてのニッチを確定する必要があるから、そういうことには敏感であるかもしれません。ただ、相対的な位置、というのは当人と他者とでは認識にズレが生じるものでしょう。引用ばかりで結局その相対位置を明らかにできない。という場合もあるかもしれません。またそういう隠蔽で自己の位置を曖昧にしておくというのも一つの戦略かもしれません。等など。

 まぁ、そんなに難しく考えずとも、「あれ、僕って、いったい何を考えてきたのだっけ?」といったノリで十分のような気がします。物を書いて読みなおして考え直してみる。これがきちんとできれば、書き物もすこしはまともになるかもしれません。




●パースペクティブ -1- (99/9/21)

 技術セミナーとかカンファレンス(最近は有料が普通)というのは、内容は大したことはないとおもわれがちです。1500円程度の本1冊程度の内容なのにどうして参加費用がああも高いのか。等など。しかし、そうしたセミナーの類も参加してみると、結果的にとても有益であるということが時間が経ってみると分かってくるものです。

 それは、そうしたセミナーの類は大学の授業のゼミナールのように詳細な知識情報の伝達が目的なのではなく、むしろ全般的な視野(パースペクティブ)と視点の伝授であるからです。その道の専門家がわずかな時間で多くを語ろうとする場合、語るべき内容を要約し重要と思われる点を拾い出して説明するものです。そしてそこで語られる文言上の内容だけでなく、我々は彼らの言葉にかかる力点や強弱を通してどこがポイントであるのか、それを知ることが出来る。それが重要であるし、役に立ち始める発端になるわけです。そうして得た視点はもちろん当たりはずれも有るけれども、後々の掘り下げの時に役に立つことになる。

 この意味で、例えば幕張メッセで重要なポイントは展覧会場へ降りる入り口付近のエスカレータの上。そこは会場全体を睥睨できる唯一の場所だと言えます。晴海の展覧会場にはそうした視点で会場を見渡せる場所が無い。
 会場に下りて個々のブースを見始めた時点でそうした視点は雲散霧消してしまいます。あたかも森に入って木々の枝しかみることができなくなるかのごとく。

 また同様な意味で、多階ビルディングの書店よりもワンフロア型の書店の方がある種の見通しを得れるという意味では好ましいけれども、数は少ないけれども書籍売り場全体を見渡せるようなお立ち台的な場所をもつ書店もあるにはあるわけです(ヘッファーズのような)。

 店舗の設計もパースペクティブというキーでもっと考えられても良いのではないか。

 でもしかしながら、パースペクティブだけでは駄目なのであって、その先の掘り下げが必要であるのはいうまでもありません。お立ち台からフロアへ下りて森の中に入ること。日本橋三越本店の中空構造にはいつも奇妙な感じを受けるものです。それは新宿NSビルの中空よりは味わいがあるけれどもフロアへ下りるのが難しい。その点では渋谷の東急ハンズの螺旋型のフロア構造は訪れるたびに感心しています。そこでは最初に上に上がって下り下りることにしています。下り坂だけの森をずっと下りて行く感じ。見通しはほどほどに良く、森の木々も良く見える。というような。






●辞書の見出し語と語義解説の関係(99/10/13)

 辞書の見出し語と語義術語の関係はどのような関係なのだろうか? ここでは、いわゆる用語集(Glossary)ではなく、外国語辞書、とりわけ英和辞書のような2つ以上の言語系の橋渡しを行うような辞書について考えてみよう。

 辞書の制作手法の一つに、見出し語の言語の側の「国語辞典」をそっくりそのまま訳してしまう。という手法がある。言語Aの語彙X と言語Bの語彙XX とが一般式として置き換え可能であれば「完全に翻訳された辞書」を制作することが可能であるかのように見える。書店の辞書の書棚に行けばそのような辞書が多数商品化されている事がわかる。

 もう一つは、見出し語を含む用例を可能な限り広範なバリエーションをもって収集し、その訳文を用意して整理することから辞書の語義術語を並べていく手法である。手間暇を要する作業だがこの手法で作られている辞書は数多い。

 国語辞典での語義解説と外国語辞書での語義解説とは本来性質を異にする。ある言語系の枠の中で語義の解説がなされる場合、それは語義定義の表現であり、見出し語に類義する表現との対照である。外国語辞書の場合は、見出し語に類似した語義を持つ別言語での語彙を示すことが第一であって、この場合、言語Aの語彙X と言語Bの語彙XXという対応で考えれば、語彙Xと語彙XXとは言語系が異なるのであるから同一言語系の類義語とは趣を異にすると言わざるを得ない。ところが、辞書を引く人々にとってはそうした外国語辞書での「訳語」は類義語以上の等価性をもつものだと見なす傾向がある。つまり、置き換えが可能な語彙だと考えられている。それ故に翻訳、あるいは訳出が可能になる。というわけであるらしい。

 見出し語に対してある種「完全な互換性」を保持しているとみなされがちな外国語辞書の訳語。私自身は、外国語辞書の「訳語」に特権的な「互換性」を付与して扱うことにとても奇異な感じを受ける。ここで極端な例を2つあげてみよう。

 翻訳リライターが訳出のチェックを行う際に「この訳文は誤りである」ということがある。もちろんそれこそが彼の仕事であるわけだが、その誤りの根拠として彼は複数の辞書に当該の原文語彙の訳語が見あたらない。という場合が実際にある。翻訳は辞書に掲載された訳語の範囲でなされるべきで、まさにそれこそが辞書が辞書たる所以である。と彼は考える。

 これとは異なる正反対の見方もある。たとえばある翻訳者は、現在市販されている辞書はそれ以前に編集された辞書の訳語のコピーで編集構成されているものがほとんどであるために、総じて訳語は古く時代遅れであって現代的な翻訳には不向きな語彙ばかりである。しかるにその種の辞書の訳語は死語ばかりで使えない。現代語をふんだんに取り入れた生きた訳語で充満していることが辞書の理想であると主張する。

 この2つの見方は全く正反対であるかの印象を与えるかもしれない。しかし実は大した違いはないと思える。辞書の役割は見出し語に対して「互換性」を保持した訳語を提供するところにある。という認識において両者は共通している。もし違いがあるとすれば総数としての辞書はほぼ完全であると考えるか完全な辞書はとりあえずない。と考えるかという程でしかないだろう。

 翻訳作業は実務的にはとても機械的な作業だと思われている。原文を構成する原語の語彙に対する訳語を全て用意しそれを並べ替える作業を行えばそこそこ翻訳になるとさえ考えられている。このように翻訳という作業は機械的だと見なされ得るからこそ、翻訳ソフトのような商品が数多く開発され売られているのである。しかし、この視点を正当化するのは「思考の経済性」だということを見落としてはならないと思われる。見出し語と訳語には意味の「互換性」がある。という考えを支持することができれば訳語の適正さを検証する手間を省くことができる。結果としてその検証コストに見合う経済効果が発生するのである。

 「思考の経済性」つまり、少ない労力でより多くの問題に決着を与えること。は限りある人生の時間を有効に使うために不採用とすることができない経済原則のひとつだと思われる。辞書の意義や有用性もまたこの「思考の経済性」に根付いている。その編集に要する労力を翻訳者あるいは学習者に負わせないという点でそれは経済的なのである。だから辞書は本来、権威とは縁がない。むしろ良い辞書はより経済的なのである。良い辞書はより少ない知的労力で語義理解へと読者を導くものなのである。 




●旧かなことば (99/10/16)

   たとえばある翻訳者は、現在市販されている辞書はそれ以前に編集された辞書の訳語のコピーで編集構成されているものがほとんどであるために、総じて訳語は古く時代遅れであって現代的な翻訳には不向きな語彙ばかりである。しかるにその種の辞書の訳語は死語ばかりで使えない。現代語をふんだんに取り入れた生きた訳語で充満していることが辞書の理想であると主張する。

 現在日本で市販されている辞書の多くは、1960年代から1970年代の日本語が基盤となっていると考えられる。それ以前の日本語、つまり「旧かな使い、旧漢字」の日本語から「新かな」へと移行は、象徴的に言えば三島由紀夫の割腹自殺で完了したとも言える。私の親の世代が残した「文学全集」はそうした旧世代の「旧かな」で印刷されており、手にとって読めばそこには「いにしへのかほり」が漂ってくる。しかし、それらはもはや「捨てられてしまった何か」という印象を否むことができない。99年の時点で「旧かな」的に文章を書いたとしたらそれは時代錯誤的な印象を与えるだろう。しかし三島が生きていた時代はまだそうではなかったのである。

 だから、あと50,100年もしたら、現在のような言葉遣いがとても「古臭い」印象を与えるだろうことは容易に想像できる。三島の時代ですら、二葉亭四迷のような言葉遣いはもはや古語であったように。

 新しい世代は新しい語を用い、古い世代の言葉は捨て去られることで言葉は変化を遂げるだろう。というより、ある世代が死に絶えることでその世代の言葉が彼らの屍とともに墓場へ葬り去られるといった方が事実に近いのではないか。1世紀が100年単位であるのは100年経てば人皆入れ替わっているということの意味でもあろう。戦前世代がもはや老境を迎えている現在、「旧かな」は絶滅寸前であることは間違いない。あと50年もすれば、学ぶことなしに「旧かな」を用いることができる日本人は絶滅し皆無になるであろう。

 だから、新しい「訳語」で更新された新辞書の制作。という作業は実はむなしいのではないか。と思える。岩波の広辞苑のように、時の移ろいに応じた改版を繰り返すことには意義があると思えるけれども、それは永遠に続けられる作業になるだろう。

LW 「反哲学的断章」P83 1937年より引用
『.....つまり、新しい言語が登場するたびに、おそまきながらわたしたちは、以前の説明をやくたたずと証明できるのではないか、と考えたくなるのである。(言語は、つねに新しく---しかも不可能な---要求をつきつけてくるものだから、どんな説明だって例外なく、無効になる。そうわたしたちは考えたわけだ。  だが、これは、ソクラテスが概念を定義しようとしたとき、陥った困難なのだ。繰りかえし、言葉の新しい用法が姿をみせる。それは、これまで私たちの知っていた用法からつくりあげられた概念とは、両立できないような用法なのである。わたしたちは、「そういうはずはない!」---「だがしかし、実際そうなのだ!」という。私たちにできることはといえば、そういう対立を繰りかえすことでしかない。』






●今回のシステム改訂について(99/11/17)

 「翻訳のためのインターネットリソース」の今回のシステム改訂では、主にデータベースの機能強化がメインでした。ユーザの側から見れば、タグジャンプの機能が強化された点では使い易くなったであろうけれど、表示行数の制限が加えられたことでかえってパースペクティブを失って本来のマルチ・ジャンル1頁形式の良さが失われてしまった。という印象を受けるかもしれない。

 けれども、これまで長い間メイン頁であった「辞書・用語集」は既に600KBを超えており、お世辞にもクイックアクセスのための「リンク集」とは言い難くなっていた。それに、900件近いデータが1頁になっていても、スクロールが手間で全体を見渡には長すぎるトイレットペーパーになり下がっていたと思う。今後もデータはさらに増えるであろうし、やむを得ない機能だと考えています。

 ただ、やはり、データに対する視野を維持すること。これはとても重要なことだと思われます。ただ、視野は視点が始点であり支点でもあるわけです。この意味で、数多くなりつつあるデータも視点を絞ることで有意な数減らしを行うことができるのではないか。そういう観点から今回の改訂では言語関係の頁として「日本語」「第二外国語」「英語学習」を加えました。従来から「Windows」「Macintosh」「Linux」「Kids」という頁もあるにはあったのですが。

 このような絞り込みは、分類整理の段階で行わないときっちりできない。それと過去のデータも蓄積が多くなってくると事後分類もたいへんです。さらに言えば、あるサイトは様々な観点からその分類集合に組み入れることが可能である。という点も考慮しなくてはならない。こうした点をデータベースに反映したつもりであるけれども、上手くいっているとはとうてい思えません。

 以前、カテゴリーのことについて考えたとき、カテゴリーを分類枠としての円が折り重なる複層カテゴリー円のイメージとして考える。つまり、分類集合の折り重なりとしてサイト表示を考えることについて書きました。この点については、カテゴリー分類の枠数を増やすことで、あえて言えば、サイトのデータベース属性としての分類集合を増やせば増やすほど緻密な分類が可能になることは予測できていたし、現状でもとりあえず実用的に違和感のない程度にこのカテゴリー分類の複層性を表現できているのではないか。と思えるところはあります。

 しかし、このサイトの原点に立ち返ってみると、「辞書・用語集」というサイト区分けは、「記述内容」を分類するカテゴリーではありません。対置して言えばそれは「記述形式」に関わる「機能分類」であると言えると思います。現状のサイト表示はこの機能分類でカテゴリーを輪切りにしています。しかしこの方法はいわば「機能主義」的な視点による区分であって、やはり一つの見方であるに過ぎません。改訂後の表示システムはいわばこの機能分類でとりあえず「統一」したのですが、近い将来、むしろ「記述内容」のカテゴリ分類で表示する頁も付加することを考えています(旧版での主題頁のような)。どちらがよいかは利用する時々で異なるものだと思えます。

 現実的な作業を通しての観点から言って、このように、カテゴリーは円のような平面的な広がりをもつ「概念の面積」ではあり得ない。ということです。以前に別ページとしていた「Mac/Win/Linux」もまたこの意味では視点が異なるわけです。子供向けサイト。もまたしかり。この意味で、カテゴリーを円のような面積的なイメージで捉えることには誤りがあると思えます。また、木構造をもってもしてもそれを十全に表現できるとも思われません。






●検索エンジンについて (99/12/1)

 インターネットから情報を得ようとした場合、検索エンジンは必須だと考えられている。しかし、思い返すに、「翻訳のためのインターネットリソース」を始めて以来、実のところ言って検索エンジンを利用することはほとんどありませんでした。その理由は、検索エンジンの検索結果でサーフィンしてみても、期待通りのサイトへ辿り着くケースがほとんど無かった。ということがあります。もちろん、「辞書・用語集」という特殊なページをターゲットにしている。ということが一因していることは否定しません。だけれども、例えばyahooの場合、そのコメント文字列に「用語集」という文字列が含まれていなければそもそも検索結果に出てこないわけですし、ロボット系の検索エンジンの場合であれば、当該サイトの最初の200Byte程度あるいはMetaタグの文字列の中に「glossary」という語が含まれていなければやはり同様に検索結果に出てくることはありません。「glossary」という語は用語集という意味もあるけれども、「まとめ」「要約」に近い意味もある。そういう点で必ずしもこれらのキーワード(あるいは目的カテゴリ文字列を含めた絞り込み検索)だけでは検索しきれない。ということがいわば常態としてあるということが言えます。

 もう一つ違った視点で言えば、経験的に言って、1時間程度の検索作業で閲覧できるページ数はせいぜい20~30頁程度。サイトの数で言えば5~10が限界です。もちろん、インターネットへの接続回線の速度やPCの処理能力などの物理的制約もあるわけですが、それらが無制約にまた無視できるほど高性能な環境を保持していたとしても、人間が閲覧できるペースが上がるとは思えません。だから仮に検索結果として300程度が出力されたとしても、それを全部1日で見ることはできません。また30,000というレベルの検索結果ともなると、実感としてはそれは天文学的数字だと思えてくるわけです。また、その30,000という数の検索結果のサイトの中に自身が欲する情報があるかどうか。それは一種の博打であって、サーフィンしてみなければわからない。というところが問題で、たぶん、インターネット・サーフィンを十全に行うためには、99年の現時点でも人間の寿命には見合わないほど時間の浪費を強いられる何かではないか。と思えます。

  少年老い易く学成り難し。

 そういう意味で、最近の検索方法は、もっぱら、様々なサイトにあるリンク集を辿ることに終始しています。ひとつ確実に言えることがあるのだとすれば、「相互リンク」は例外としても、まずもってリンク集に載っているサイトは外れない。ということです。少なくともそのリンクを作成した本人が「もう一度訪れるだけの価値がある」と考えてのリンクなのですから、どこか見所があるサイトである。ということが保証されているということがある。この点である種のフィルタリングを経ているという意味でリンク集は1サイトしか掲載されていないものであっても無視できないほどの価値があるといえます。またリンク集を見ていると同一のサイトが様々なリンク集に現れてくる。そういうサイトは中島誠之介的に言えば「いい仕事いているねぇこれは」というサイトなのです。もちろん、採録にあたって、それらをまる写しなどはしていません。現状レベルで言えば、どのようなリンク集でもこと辞書・用語集に限れば、その多くが採録済みである場合が多いので、初見となるサイトだけを採録させて頂く場合がほとんどです。

 全く異なる視点、例えば「ホームページ」のアクセス数向上をはかるコツがあるとすれば、自然発生的に自身のサイトが他者のサイトのリンク集に載るほどになれば、あとは自然に増えるであろう。ということは言えると思えます。自身が満足できるレベルのサイトになっていると思えても、同種の嗜好を持っている人にすらインパクトを与えることができないのであれば、それは何かが足りない。という意味において。数多くのリンク集を見てきて思うことがあるとすれば、何とは定義できないけれども、良い悪いの基準は客観的に存在する。ということです。この意味であるレベルに達するコンテンツを制作することは難しいし労力を要することではあるけれども、あるレベルに達しさえすれば、たぶん、自然に読者は増えると思えます。

 このような意味で、The WWW Virtual Libraryというアカデミックなポータルなサイトが目指している点あるいは到達点は、既存の検索エンジン的発想ではなく、たぶん、インターネット本来のオーソドックスな利用方法であると思えます。インターネットの発展の経緯を考えれば、正道はこちらの側にこそあるのではないか。と思えます。今となってはもはや誰も機械でさえも、インターネットの現状をそのURLだけでさえ全てを記述することは不可能です。混沌がデフォルトであるインターネットと付き合うためには、この混沌を回避することこそが重要だと思えます。混沌に付き合う限り、その混沌の中で右往左往を強いられることは避け得ないからです。




●マルチリンガルということについて (99/12/2)

 私がこれまでの生活の中で、まさにマルチリンガルとも評することができる女性に出会ったことがあります。彼女はミャンマー出身の三十代のはじめ(たぶん?)で、当時ある外資系の会社で仕事をしていたのでした。彼女はミャンマー語、英語、日本語、中国語(北京語、広東語)、ドイツ語、フランス語、イタリア語等々、とにかく、スターウォーズのC3POの如き言葉使いで、周りのだれもが感嘆の声を上げるほどの能力の持ち主でした。それは彼女がオフィスにかかってくる世界中の支社からの電話にほとんど一人で対応できるということで日々証明していたわけです。香港からの電話と台北からの電話を両方対応できるひとは中国人といえどもざらにいるわけではありません。また日本語でも冗談を言うので、それがまた超絶的な冗談に聞こえてしまうと言う具合。

 私自身は言語的にはそんな能力は残念ながら欠落しています。それでも、ことプログラミング言語について言えば、おおよそどんな言語でも一月もあればどうにか使いこなすことができるようになれそうな予感だけはあります。自然言語とは全く比較の対象ではないのですが、言語的な文法が分かれば何でも書けるというより、ある種の定型的な表現を知っているので、それを表現する枠組みとしての簡単な文法的ルールが分かればその定型表現を新しいプログラミング言語でも書くことができる。というレベルに過ぎません。

 英会話の本に「500語で話せる英会話」とかそれに似た本があるけれども、「ほんとうにそうかいな?」という印象を持たざるを得ない。ということが言語習得で苦労している人の実感だと思えます。しかし、実は500語でも十分なのではないか。ただ問題はその500語を暗記すれば十分ということではなくて、また辞書的な理解でも十分ではない。何かにはめこみ得たとき、はじめて活きてくるというようなある種混然とした枠というものがありそうな気がするわけです。それを「母国語理解の枠組み」と仮に名付けてみるとします。チョムスキー的ではあるけれども。

 彼女の普段の会話を聞いていて気づいた点があるとすれば、「表現の仕方」について話し相手に尋ねることが頻繁であったという点です。彼女との会話の話題の中心は気がついてみると言語表現、文例の勉強会になっていた。それはとても知的な会話であったし、彼女がそこで披瀝する他の言語でのニュアンスの違いの話も会話に参加する人たちを決して飽きさせることはありませんでした。こうした言語感覚はある意味で言語学の専門家のセンスそのものであったわけです。けれども、それは日常会話の枠のなかでなされていたのです。

 思い直せば、彼女の言語習得の方法は、幼児のそれととても似ている。ということがいえるかなと思える節があります。周りの人を親代わりにしてどんどん言語表現を習得することができるのは彼女の人柄に負うところが大きかったけれども、それにしても幼児・子供の言語習得方法そのものであったのではないか。とすれば、そうした問いかけに対して応えてくれる人々の存在も重要であるということも言える。ヨーロッパの人々には複数の言語に堪能な人が多い。というのも同様で、そもそも様々な言語が飛び交うような環境ではそのような言語表現を普段の会話の中で習得できる機会を得やすいということがあるかと思えます。

 「母国語理解の枠組み」が何であるのか。私が日本語を理解していて読んだり書いたり話せたりするのはどういう理解があるからできるのか? 自身でもこの点はよくわからない。この意味では私は私にとって謎なのです。うーむ。

 彼女は「なぜそんなに多くの言語をはなせるのか」という問いに明確に答えることができなかったと思います。というのもそう問う人がいて彼女はうまく答えられることができなかった。思うにそこには文法的な議論や文法的な理解が先にあることはなかった。ということでしょう。表現が先にあって数多くの表現を習得する中で言語能力が高まる。そういう習得の仕方。こういう言語習得の仕方を現在の教育の中で行えるのか。というと甚だ心許ない気がします。




●この頁のURL変更について (99/12/15)

 この Dune's Home Page のURL を変更しました。
 新URLは

  http://www.kotoba.ne.jp/~dune/

現時点で、「翻訳のためのインターネットリソース」にはいわゆるhtmlだけで書かれたページは1ファイルも存在していません。これとは反対に、このページはHTMLで書かれたファイルがその大半でした。しかし、例えば年表であるとか、用語集であるとか、そうした追記修正を伴うデータがベースとなる頁を今後追加することを計画しているのですが、これを実現する際に、HTMLだけでそれらを書くことは一切行うつもりがありません。CGIベースのサイト構築に慣れたせいもあります。でも最大の理由は、HTMLまみれのデータはその規模が大きくなればなるほど、取り返しがつかなくなるほどの無駄な努力になるということです。データ数が多くなれば、またテーブルを多用したレイアウト整形を行えば行うほど、データ総体は切り刻まれ原形から遠くなってしまうものです。

CGIを利用すれば、データはデータベースの形で管理できるので、ホームページ以外への転用も可能になるし、データ修正や追加などもデータベースの検索機能や文字列置換機能などを十二分に利用することができます。もっと重要なことは、レイアウトをバッサリ変更することがいつでも可能だということです。普通のホームページ制作の手法ではこの点がネックになるものです。また見栄えを気にしながらHTMLまみれのデータを入力して行く。などということは人のなすすべきことではないと思えます。そんなページ作りに割く時間があるならもっと別のことに振り向けるべきで、たぶん私は今後HTMLファイルを公開用に書くことはないと考えています。

CGIはすべてperlという言語を利用しています。表示のありかたとデータの構造を全く別の次元で考えるということはとても論理的であると思えます。Pentiumの300MHz程度でも、処理速度はお世辞にも速くはないと思えるけれども、とにかく安定しているので安心して使用することができるものです。Larry Wallに感謝!





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