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ウィトゲンシュタイン的雑感(Internet Resources 編集雑記)  -2000-

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2000


●Windows2000に寄せて (2000/2/18)

 今日は2月18日。つまり、Windows2000の発売日。でも、まさか、今日それを買いに行くつもりはない。Microsoft社のソフトウェアにはずいぶん昔から世話になっている。さすがに紙テープベースのBasicインタプリタは見たことはないけれど、南新宿にあったムーンベースというコンピュータ販売店に行ったことがあるから(77年)、それを使ったことはあるのかもしれない。TK-80BSのインタープリタはNECオリジナルで、PC-8001のBASICはMS社の製品だ。Apple][のBASICは整数BASIC(6KB)はウォズニアックが書いたのだと記憶しているが、拡張BASICはMS社のものだ。いずれのBASICにもたぶん、ゲーツ大先生の書き下ろしの生コードが含まれているはず。最初に買ったパソコンは8001で、Apple][はコンパチ基板にTTLを半田付けして組み上げたまがい物ユーザでした。(^^;

 DOSの前にCP/Mという8-bit OSの時代があって(83年くらいまで)、それはPC-8001/8801の時代とちょうどオーバーラップするわけだが、この頃はMBASICやM80(Z80用のアセンブラ)はよく使った。BASCOM(BASICコンパイラ)なんていうものもあった。でも、MS社の最初のヒット商品はApple][用のCP/Mカードで、これが外れていれば今のMS社は無かったかも知れない。そういう意味では、MS社は実はApple社に足を向けることができないはずなのです。

 16bit機への移行時期に、米BYTE誌の広告を見てシアトル・コンピュータ社のOSを買おうと思ったことがある。版権まで買っていれば今頃は....。幸運の女神は禿げているので後ろ髪は掴めない。ということ。

 DOSは1.0からのユーザ。CP/M86もそうだった。DOSのMASMはCP/M86のASM86よりはIntelのASM86に近かったけれどIntel仕様からすればひどい代物だった。SEGMENTディレクティブやストリング命令の記述には露骨な端折りがあった。もちろん、86自体が「変」なCPUだから、言語を作るのが大変なことは想像できるけれども。当時はもっぱらIntelの言語を使っていた。PL/Mを考案開発したのはCP/Mを開発したデジタルリサーチのゲイリー・キルダールだ。かれがヨーロッパのバカンスに行ってIBMとの約束を反故にしたためにMS社にOSの開発仕事が行ってしまったのは有名な話だが彼ももう鬼籍の人だ。ちなみにDRI社もそうだ。

 Windows1.0のPC-9801版というのを動かしたことがある。85年頃の話。当時はApple社がLook And Feel訴訟でAtari/DRI社のTOS/GEMを示談で仕様改悪に持ち込んだこともあって、Windows1.0のデザインはタイリングしかできない。というものだった。もちろん、640*400の解像度ではそもそも日本語表示には無理があるわけで、Window1.0/9801版はなんと云うべきだろう? 玩具以上のものではなかったことは確かだ。それに比べれば GEM/9801の方が良くできていた。

 Macintoshを初めて買ったのは86年の4月。というのも、その前の年にMacWriteで書かれたInside Macintosh という仕様書を入手していてprogramming したくて仕方がなかったからだ。というより、80年に読んだByte誌のSmallTalkの特集号でラリー・テスラーが書いた記事に触発されて、とにもかくにもGUIベースのアプリを書きたかった。という6年越しの恋。みたいな感じだった。Mac用のAztecCでC言語は勉強した。その時点では英語は読むことさえおぼつかなかったけれど、InsideMacやら何やら英語を読まなければ何も出来ない。ということでずいぶん勉強した。

 Windows2.0 を最初に動かしたのは88年のこと。PC互換機(i286+4MB+EGI)の英語版。98版のWin2.0は結局入手しなかった。その頃はむしろMacやAtariSTに入れあげていた。98はCCT-98という通信ソフト専用機になっていた。

 Windows3.0は米国帰りの友人のおみやげでもらった物だ。ちょうどバブル崩壊のドサクサが始まった頃というか、湾岸戦争やら何やらの頃。Windows3.1は486の基板を米国から個人輸入したついでに手に入れたはず。英語版。そうそう、MS-C7.0と一緒に?。MS-C7.0はWin3.0用でVC-1.0がWin3.1用でした。MS-Cは4.0/5.0から7.0までバージョンアップしたけれど VC++にはupdateしなかった。そのため、V2.0へのアップグレードパスを失ってしまった。DOSは3.3Cで十分で、5.0を使ったのはほんの少しの間だけだった。

 90年代はMacOS 8.0が出るまでの長い間、ずっとMacのアプリケーションを書いていた。インターネット・イントラネット(後者はすでに死語?)の時代になってからはSQL + VB + HTML。で、Win95は97年。97~99年までの間にPC互換機は10台分組み上げた。ここ1年は Linux + PerlのCGI。

 いまだ老兵は死なず、なお立ち去らず。ということかなぁ。

●LW本 (2000/3/7)

 先日、思わぬ収入(某コイン10586枚分)があったので(笑)、ここぞとばかりごっそり買い物をしてしまった。Windows2000やら Magic The Gatheringの日本語版のSoftやら。また改装後の新宿のABCは普通の駅前書店と変わらなくなってしまったので紀伊国屋書店に行ってLW本を3冊。

・ウィトゲンシュタイン全集補巻2 心理学の哲学2 大修館
・反哲学的断章 増補新訂版 青土社
・ウィトゲンシュタインの知88 新書館

 全集の補巻2はこれまで買いそびれていたもので、ようやくという感じ。これで全冊揃いに。反哲学的断章の新刊はここの掲示板で田中さんに教えていただいていたもの。旧版に含まれていた文章もずいぶんと改訳されている模様。それに追加された文章も多い。『ウィトゲンシュタインの知88』は入門書志向のエンサイクロペディア。構成的には大修館から以前出ていた『ウィトゲンシュタイン小辞典』に似ている(概略、書誌、キーワード解説)。だけれども、執筆陣が1世代若くなっているという点が大きな相違点だ。ただし研究者は世代交代しているようだけれども、新味を感じさせる記述は見あたらなかった。LWと宗教の関連性には沈黙するのがLW本の定跡ということであるようなので、そこでも個人的な関心を触発するような記述はやはり見つからなかった。

 オウム事件以降、「宗教」寄りの発言を繰り返していると「アブナイ」とか「アヤシイ」とか「カルト」であるとか見られてしまうということもあるようなので、まぁ、そう誤解されても別段構わないのだけれども、宗教的ではないということになんらかのアドバンテージがあるかどうか。たぶん、アドバンテージはあるのだろうけれど、あったとしてもそれはまさに「近代的」なのであって、やはり古風な発想にもとづくものだと私には思われる。

 それと、他には、クリュイタンス版のフォーレのレクィエムとリリンク版のモーツァルトの レクィエム。さらにフルトベングラーのバイロイト版の「第九」。クラッシックは中高生の時代にはよく聞いていたのだけれど、随分と久しい。なにしろZEPやFLOYDが現役の時代を通してRock一辺倒だったから。フルトベングラーの「第九」なんて定番中の定番なのだが入手したのはこれが初めて。うーむ。

 ちなみに、フルトベングラーは1886年生まれ。LWより3歳だけ年上に過ぎない。まさに同世代。LW自身はベートーベン大好き人間であったけれど、いったい誰の指揮による演奏を聴いていたのだろう? CDに付いてきたライナーノーツを読むと、「フルトベングラーは1918年末ウィーンのトーンキュンストラーを指揮して新人指揮者の第一人者として認められた。」とある。とすれば、これは第一次世界大戦直後であり、LWが復員した年のこと? さらにライナーノーツには1922年以降、ウィーンフィルから度々客演指揮者として迎えられたとあるし、1927年からはウィーン国立オペラの(常任?)指揮者も兼ねた。ともある。またフルトベングラーはLWがケンブリッジに復帰した直後の1931年にベルリンフィルを率いてベルギー・オランダ・イギリスの諸都市を訪問したということでもあるから、おそらくLWのベートーベン体験あるいは演奏会体験の一端はフルトベングラー体験でもあったのではないかと思えます(といってもそれは状況証拠でしかありませんが)。ウィーンフィルや国立オペラにもHomePageはあるだろうから、1900~1951年くらいまでの演奏会目録などを調べてみるのも面白いかも知れません。



●部品取り (2000/5/2)

 大昔、ラジオ少年であった頃、秋葉原や大阪日本橋はワンダーランドそのものだった。何が面白いかと言えば、ジャンク漁りの右に出るものはない。うち捨てられたただ同然の部品や基板、壊れた機器を買い込んで、それを修繕したり、取り外した部品を再利用して何か新しい回路を組んだりすることに無上の喜びがあった。

 ジャンクも真空管やトランジスタの時代までは、取り外した部品がそのまま使えた。基板から取り外したトランジスタ一個でもラジオが作れた。また、ICの時代になっても、いわゆる黒いゲジゲジ虫のようなのDIPパッケージの時代までは取り外し部品もそれなりに意味があった。64KBitから256KBitのDRAMの時代は部品が不足していたこともあって新品が高価で、ジャンク品外しのDRAMを安く買っては悦に入っていたものである。

 しかし、最近では、もう壊れた基板は直せない。というのも、基板に実装されるICのほとんどはレザー光線などを応用した平面実装のICで基板から取り外すことが困難であるからだ。ICの足も百足(ムカデ)よりはるかに多くなってしまっている。コンデンサーや抵抗もまたリード線の無いチップ型ばかりになってしまった。そもそも、クロック周波数が高速になっているために、もはや手書きエッチングなんてデジタルの世界では機能しないし、取り外したICを再利用するなどという発想を使う側も作る側も持ち合わせてはいない。汎用ICなんていらない。という時代になっている。

   その昔、インベーダーゲームがはやっていた頃、一般市場で爪楊枝が不足したことがある。 当時慢性的に入手困難だった74LS245に代表されるロジックICの納期遅延が常態化していて未入手のICを実装しないまま半田漕で半田付けする際に、ICを差すべき基板上のスルーホールが半田で埋まらないようにするために爪楊枝を入れて(IC一個について12~20本程度必要だった)利用されたからだ。古い話だ。

 当時、基板の部品実装は「おばちゃん」仕事であった。部品屋が受注した数の部品を納入すると、基板屋で待ちかまえていたおばちゃん達がそれを1個1個手で基板上のスルーホールパターンへ埋め込んでいく。そして一通りの部品が装着されたらベルトコンベアーに乗せて(あるいは手作業で)半田漕(マクドナルドのフライドポテト揚げ機のようなもので油ではなく半田がドロドロ溶岩状態になっている)で数秒半田付けして、長いリード線は半田付け後に切り落とすようなことをしていた。だから、部品知識のある熟練したおばちゃんはその会社の稼ぎの中心にいた。当時のゲーム会社が同様な仕事を単に工賃が安いからと台湾へ発注したことがあるが、聞いたところによれば、完成基板の歩留まり率が6割を切るほどにひどく散々であったという。DIP-ICは逆差し実装されて通電すれば壊れる。また、私が使っていたCP/M専用の某社の1ボードコンピュータはタンタルコンデンサーの極性が逆さに半田付けされていたために、使用後半年くらい経過してから1週間に1個づつ程度、基板上で炎を上げて燃えた。その度にZ80にリセットが掛かったりして、結局使うのを止めてしまった。部屋を暗くしてタンタルコンデンサーが燃えるのを見るのは結構きれいだった。82年頃の話だ。8インチのフロッピードライブが部品レベルでも10万円程度した。

 今から20年も前の基板実装といえば、そんなものであった。知り合いにはApple][の基板を多種多様なコンパチ基板を含めてICの取り替えベースで修理できるやつがいた。でも、今ではそういうIC交換を行い得る修理技術の習得は難しいし不要でさえあるだろう。また、台湾はご存じの通り、マザーボード生産世界一を誇り、PC基板の製造では覇権を得ている。日本の基板屋さん達は今頃どうしているのだろう?





●部品取り2 (2000/5/5)

 ジャンクのことを考えると、それは同時に思想史のことも思い出させる。西洋思想史であれ東洋思想史であれ、それはジャンク基板に似ている。つまり、ある思想はそれが語られていた時代や語る本人においてライブに意味を持っていたこともあったのだということ。また、後世の人間にとってそれは「使えそうな」部品漁りの対象であるという点で。

 ジャンク・パーツがそうであるように、思想も「汎用的」な機能を有するものが後世の人には好まれる。古い思想は、汎用性、言い換えれば「普遍性」が認められた部分を中心に後世の人々に伝えられてきた。後世の人間は、古い思想から「つぶしが効く」部分だけを取り出して自分の「論理回路」に組み込んで使おうとしてきたのである。この意味では、一次的な古い思想は「古典」としての地位を得るが、そこから派生する二次的な思想が新たな古典になることは少ない。それでも、いくつかの新しい思想の中には「汎用性」があると考えられ、それなりに受け入れられたものもある。

 例えば、共産主義思想はその最たる例であった。約百年の昔には、共産主義思想はやがて世界を席巻する思想であると信じられていたことさえある。その思想は社会の生産回路や政治回路、はたまた個人の日常的な主義信条にまで組み込むことが可能で、また「組み込まなければならない」と考える「前衛」たる人々が数多くいた。ただしかし、1989年のベルリンの壁崩壊という歴史が事実として示すように、この思想の諸回路への組み込みは、思想そのものは「新品」であったはずにも関わらず、結局失敗したと言えるだろう。ここではあえて、その具体的な理由や原因は問題としない。
 問題とすべきは、目の前の思想をどう扱うか(扱い上手になるためには十分な知識が必要だと考えられている)ではなく、どのように見ればよいのか。という視点そのものだと思われる。

 もし、古い思想からいくつかパーツを取り出して新しい思想を作ることができるのであれば、古い思想の部品リストを細目に至るまで克明にカタログ化し、その種別や機能や用途用法の詳細を踏まえた上で、組み合わせて使えば「何か」が出来るであろう。しかしながら、このやり方には決定的に欠けている点がある。それは新しく語られるべきであるはずの思想そのものである。
 かつて、『構造と力』の浅田彰が華々しく持ち上げられたことがあるが、その当時の一読印象を言えば、良くも悪くもその著作は「カタログ」であった。ということである。つまり構造主義、あるいはポストモダンの潮流をほどよくカタログ化することには成功していたと思ったけれども、その先は無かったのではないか。

 私は浅田を悪く言うつもりはない。というのも、思想の「カタログ」化という作業は、実に日本的というか、古来より日本の文人の文人たるが所以の営為であるからである。遣隋・遣唐の昔から、また『本朝十二考』の菅原道真、空海、最澄等々から明治時代さらに平成に至るまで、日本の文化人はいかに重大な文物を持ち帰り、あるいは精進研究の上でいかにわかりやすく紹介したかという点でその業績が評価されてきたからである。紹介者自身の思想でなくとも、それを紹介したこと自体が評価されてきたのである。昔のように文化の流通が主に人の移動や口述などでしか媒介され得ない極めて伝達速度が遅く緩やかな時代であれば、海外文化は紹介者を通じてのみ伝達されるような形態しか取り得無かった。だから優れた文化人はまずもって優れた翻訳者でなければならなかった。

 しかし、この翻訳文化に致命的な欠点があるとすれば、結局、独自の確固たる文化の担い手となるべき人々の視線を外に向けさせるだけで、むしろ己の視座の基盤を脆弱にし続けていたことではあるまいか。たとえば、ここ20年間のコンピュータを巡る技術革新さらに現在「IT革命」と呼ばれているインターネットへの文化経済の強度なシフト傾向を見つめたとき、そこに日本製の何かを見いだすことができるであろうか。何を造り出したというのだろうか?

 自戒を込めて言えば、C言語でプログラミングできる技術者は数多くいたとしても、C言語そのものをインプリメンテーションできる技術者、さらに言えば、C言語類似の言語を設計できる技術者がどれほどいたか。ということなのである。もう一つ言えば、そういう能力を潜在的に持っている技術者はあまたいたであろうが、独自技術を育成温存することにどれだけの投資があったというのか。なぜ、ISOやANSIやIEEE等々を金科玉条のごとく自らの技術基準にしてしまうのか。問題はスーパー301条などではなかった。とも思われる。

 もう一つの例として、坂村健が主導してきた「TRON」プロジェクトについても、触れておく意味はあるだろう。84年前後、TRONプロジェクトはI-TRON(工業制御あるいはコア),B-TRON(ビジネスあるいはPC-OS)、C-TRON(通信)、そしてH-TRON(家庭用途)の4セグメントが実現される構想であった。I-TRONは日立や日電などの半導体大手がそれなりに採用し、彼らの独自CPU製品ラインに対して実際にインプリメンテーションも行われた。ノイマン型(命令コードのフェッチ・実行型)コンピュータ最後のOSとなるべく考案されたというそのコアの仕様は、確かに細々とした機能を備えていたが、当時私が懐いた率直な感想は、いくつかのリアルタイムOS製品仕様の集約的仕様でしかない。ということであった。インテルが製品出荷していたiRMX86というリアルタイムOSの内部仕様にそれはよく似ていた。もちろんそれより高機能であるとは思えたが、基本的な違いは無かった。あえて違いがあるといえば付属的な機能の数の多さ程度であった。84年当時はMacintoshは既に市販されていたが、B-TRONは仕様的にも影も形も無かったといえるだろう。C-TRON,H-TRONはどうであろう。今なら仕様書くらいはあるのだろうか?

 だから、I-TRONに限って言えば、それは実に典型的な日本製のソフトウェアであった。基本的なアイデアは海外文献に全て既述であることばかりで、それが見事に集約されてある。というものであった。そのため、仕様はすばらしいものであっても、開発環境に対する実務的考慮がなかったという点であまり現実的ではなかった。リアルタイムOSベースのアプリケーションを作成するのは、まずOS基本的動作の仕組みや各種機能の動作原理を知ること自体が上級技術であり初級技術者には難解であること。またプログラミング技術的な観点から言えばその種のプログラム開発は特にデバッグにおいて極めて難しいフェーズが存在する。だから効率的な開発環境は必須であるはずだった。また、より上位のB-C-H-TRONの公案は結局後回しにされた。なぜ?。学術レベルは仕様提案までで、あとは企業に任されていたから?
 私は、これは順序が逆であったのだと思う。OSのような今日的、未来的技術と取り組み、その普及や革新を目指すのであれば、技術通信を含む家庭用PCのOSのあり方。というレベルが真っ先にあってしかるべきであったのだと思われる。84~85年にそうした絵が分かりやすく直示されていれば、今日的なインターネットがそこに欠落していたとしても、当時の坂村の影響力の大きさを利用すればもう少し事情は違ったものになったであろう。本当に惜しいことに思われる。そうであればMS社も今日のように司法省から企業分割を強いられなくても済んだかもしれない。また、開発環境が人任せであったのも理解できないことの一つであった。
 当時の坂村は結局I-TRONの仕様しかまとめることが出来なかったに違いない。それは諸文献を集約すれば当時でも集約は可能であったのであろう。ところが、家庭用コンピュータのOSというのは、おそらく今でさえも持ち得る限りの想像力を駆使しなければ描くことはできない。ここに集約作業の限界と創造作業への進入可否の境界があらわれたのだ。それは海外情報集約型である日本型文人技術者の限界でもあったのだろう。
 彼はその後、NHK教育TVのコンピュータ講座の講師を長年務めていたが、例示されるコンピュータは多くはMacintoshであった。パーソナルメディア社がB-TRON準拠のOSを販売するのはずっと後のことで、結果的にMacとは少し違うという程度であった。TRONキーボードなどというものもあったが、集約を基本とするスタンスで示すことが出来るのは差異だけであると思えた。先例を学び研究することの中から革新を産み出すのは容易ではないということだ。それを普及させるには知的努力だけでは如何ともしがたい壁があるにせよ。

 思想史にせよ、先行技術の集約にせよ、ジャンクとも言うべき目の前の骨董品から部品を切り取って貼り合わせれば何か新しいものが出来る。と考えてはならないと思える。古いラジオから取り出した真空管を使ってトランジスタラジオは作れないし、トランジスタラジオから剥ぎ取ったトランジスタからICはつくれないのだから。

   インターネット利用の進展によって、情報の流通速度と流通経路は従来とは全く異なる状況になることを考えなければならない。最新の学術情報でさえ、専門家の頭を飛び越えて一般に届くであろうし、その量の極大化と情報の質の高度化は雑音の増大を伴いつつも爆発的に進むであろう。従来型の専門家は役に立たないという時代にさえなるであろう。メタフォリカルに言えば、ジャンクな何かはツァラトゥストラが抱え込んだ死人を放棄したように捨てなければならない何かだと思われる。これまでのようなやり方で情報を集約することは、今後も基本技術ではあり続けるであろうが、それはひとまずおいて、まずは己の視力と体力を鍛えること。それに専念する時期があってもよいのではないだろうか。



●黒崎宏の新刊 (2000/8/1)

 一昨日、近くの書店で黒崎宏の新刊『ウィトゲンシュタインが見た世界』という本を購入しました。立ち読みの際に、書き下ろし部分にドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』への引用があるのが気になってということです。

   私に言えることがあるとすれば、氏はLWの宗教観を前期後期それぞれに分け、特に前期については「禅」的視点でLWの宗教観を問題とし、後期については氏の理解の範囲でのキリスト教的な視点で解説がある。ただしそのいずれにも違和感を感じざるを得ないという点だけです。



●ピンボール (2000/9/21)

 Yahoo! オークションにAtariのマーブルマッドネスの筐体システムが売りにでていたのを見た。アタリ製のアーケードは一種独特な雰囲気があるので、国産ゲームばかりのゲームセンターに置かれてあれば、それは常に異彩ある存在だった。この異彩感というか異臭がいつも気になっていた。

 最初にゲーム機で遊んだのは子供の頃、渋谷の東横百貨店の屋上だった。スクロールする布張りの蛇行道でジープを左右に動かすドライブゲームだった。東京オリンピック前後の話。60年代のゲームセンターといえば、そんなゲームとピンボールゲームが中心だった。当時のピンボールゲームは玉を手で押し上げるノブ式のもので、自動式になったのは70年以降のことだと思う。ラジオいじりに小遣いの大半を費やすようになるまでの間、浪費の全てはピンボールゲームが貢ぎ先だった。

 インベーダーゲームブームの前まで、ピンボールゲームはゲームセンターの主役だった。今はパチンコやになっている下北沢の第一勧銀近く(葬儀屋の隣)にあったゲームセンターでさえ、6~7台程度が列んでいた。インベーダー・ゲームブーム以後、その地位と設置場所をTVゲームが占めるようになったのは時代の成り行きだけれども、ピンボール機そのものも電機製品からエレクトロニクス応用製品に変身を遂げていった。

 現在ではピンボール機は衰微してしまっていて、本場米国でも製造を続けているメーカーは1社になってしまっているという。Williams とかBallyとかいった会社はもう無い。らしい。それでも、フランスではまだまだ人気があるらしい。88年に旅行でパリに3日間だけいたのだけど、いわゆるカフェにはたいていピンボール機が置かれていた。ドバイ経由の南回りでパリに着いたのが早朝で、朝食を取ったカフェのみならず、本当にどこにでもあった。88年当時の日本ではもう設置台数が激減後であったから、何かとても異質な感じがした。70年に観た『シシリアン(ギャバン、ドロン、ヴァンチェラ共演)』という映画でジャン・ギャバン演じるシシリアン・マフィアの親分の表稼業はパリのピンボール機の販売業という設定だった。だから、そうかぁ。という印象がある。

 ピンボールはパソコン初期のTVゲームの花形でもあった。Apple][用のゲームとしてはビル・バッヂの「ピンボールコンストラクション」とか「ナイトミッション」があった。お気に入りは「ミッドナイトマジック」で、玉の動きだけでなく音も良かった。システム・サコム製の9801用のゲームも5MHzの86で走るゲームとしては抜群にいい動きをしていたと思う。彼のビル・ゲイツ大先生も大のマニアであると噂に聞くけれども、Windows-NTには昔からピンボールゲームがデフォルトでインストールされている。

 しかし、所詮、TVゲームはTVゲームに過ぎない。ピンボールゲームが真に魅力的なのは、玉が地球の重力によって落下してくることなのだから。その微妙な重力加速感はTVゲームでは得ることができないのだから。1ゲーム・アップしたときのあの「カポン」という音は木製の筐体を槌で叩くことで作られているわけだけど、その音を「指先」で聞くこともTVゲームではできない。それはまさに、リアルなゲームなのだ。と私には思える。

 子供の時に夢見たことがあるとすれば、ピンボール機を1台、自分の部屋に置くことだ。もちろん実現しているわけではない。実現させるにはそれ相応のスペースと、あのけたたましさに耐え得る家族が必要だから。置き場所は確保できたとしても、家族はね、もはや選べないのだ。





●神保町 (2000/10/5)

 3日、久しぶりに神保町へ行った。明倫館書店にLW関連の古本が何冊かあったのを覚えていたからだが、それもずいぶん前のことだから、まさかまだあるとは思わなかった(他人の別本?)。マクギネスの『ウィトゲンシュタイン評伝』を購入。この本は、評伝本としては詳細さにおいてレイ・モンクの評伝をはるかにしのいでいると思う。本当に残念なのは記述が1920年前後で終わっていることだろう。第一次大戦の終結が切れ目になっているようである。うーむ。とばし読みで拾う限りで言えば、やはり、ドストエフスキーの影響は大きい。ということだろう。モンクの評伝にも、LWは、ノルウェーのショルデンの小屋を知人に譲り(といっても万年筆で十分ということになったようだ)、『カラマーゾフ』を背嚢に詰め込んで前線へ死出の決戦に赴いたという記述があったが、マクギネスの本では、ピーラー博士の手紙の引用でそれを裏付けている(P397)。他にも、ヘルミーネ姉様は弟をアリョーシャと重ね合わせてみているのはたぶん確かだと思われる記述もある。モンクがこの辺についてサラリとしているのは、ドストエフスキーに関わる読書量の差であろう。マクギネスはきちんと読んでいる様に見える。

 評伝のような、客観性を要求される文章を書く際には、より多くの一次資料に触れ得ることが重要であるだろう。特に読者としてみれば、結果として「証拠」に基づく検証が行き届いている「実証主義的」あるいは「検証主義的」な文章を好まざるを得ない(笑)のであるから。その事実の裏付けの担保価値の大小が著述の価値とみるという傾向を私に限らず、一般的な読者は皆有していると思う。不思議なことだが、ドキュメンタリー的な書物の価値はこの点に依拠している。

 だから、私のように、一次的資料よりも二次的、三次的資料しかリファレンスにし得ない立場では、そもそもこのようなドキュメントは書くことを断念せざるを得ない。と思うのであります。

 あと、その日は北澤書店でズーアカンプのペーパーバックのドイツ語原書を手に取ってみたけれど、またまた、持ち合わせの都合で断念。飛び降りるには清水の舞台は高いということだ。15,700円。その隣にあったフッサールの全集本が9冊で8,700円?。うーむ、どうしてこういう値段なんだろう。とふと思った(見間違えかもしれない)。三省堂で、「反哲学的断章」のブラックウェル版の原書を見つけたので購入。独英対訳本(第二版)。とりあえず、ドイツ語を再学習するための教材はそろったということか(笑)。来年は2001年だが、LWが逝去したのが1951年なので、日本国の著作権法上では、少なくともドイツ語においては来年、版権切れになる。ということで....。というたくらみを密かに抱いている。だからといって、単に電子テキストに落とすだけでは面白くないので、DB化を考えている。もちろん、ドイツ語の再学習が目的だから、時間はかかるだろう。

 その後、お茶の水・丸善の前で、旧い友人のK.黒沢君と数年ぶりに会う。著書にサインしてもらってホクホクでありました。



●トルストイ (2000/10/11)

 今月はじめに、トルストイの『戦争と平和』のソビエト版の映画のDVD版を手に入れた。3枚組で18,000円。少々高価に過ぎるという価格だけれども、私においては仕方がない。実は、今から8年くらい前の個人輸入に凝っていた時期、米国のビデオの通販カタログに英語字幕のビデオ(確か4~5本組)が99.95ドルとかで売られていたのをみて入手しようかと考えたことがある。しかし、英語の字幕では母親が観ないであろうから。ということでパスした。ソビエト版の『戦争と平和』は、僕よりも母にとっての映画で、僕などは彼女が映画館に行く際の単なる「オマケ」に過ぎなかった。65年と67年のロードショーに付き合わされ、70年の万博の年、大阪毎日ホールでのソビエト映画の連続上映会での全編一挙上映にも付き合わされたという経緯がある。その時は切符の関係から『戦艦ポチョムキン』とかレーニンの伝記映画の類をたくさん観た覚えがある。その後『総集編』と称するお手軽版がロードショー公開されてこれもまた観た。その長さやソビエト映画であるが故にTVではNHK教育でも放映されたことはなかったのではないか?。映像的には実に30年近くご無沙汰していたフィルムだけれど、映画のサウンド・トラックはそれこそ磨り減るくらいに聞き込んでいるので、DVDで観ても昨日観たような印象。不思議な感じがする。

 ドストエフスキーを読み始めたのは、個人史的にはずっと後のことで大学に入ってからのことだ。いわばドストエフスキーの前に『戦争と平和』的トルストイ体験があった。それもビジュアルな体験で、ロシア的なこと、貴族的気風、ロシア正教的景色、ロシア語的イントネーションのような事柄の理解はこの映画とそのサウンドトラックに負うところが大きい。監督とピエール役をこなしたセルゲイ・ボンダルチュクはもう鬼籍の人となっている。ナターシャ役のリュドミラ・サベリューエワはその後『ひまわり』という露伊合作映画に客演していた。『赤いテント』にも出ていたような気がする。

 LWとロシア的ソビエトの関係は、彼の哲学では露出しないが、個人史的にはかなり大きな位置を占めていると思える。多くの評伝では、トルストイの福音書入門本と戦時のLWとの関係が指摘されている。しかし、トルストイよりはるかにドストエフスキーの与えた影響の方が重いに違いない。

 『戦争と平和』を観て思い出したことがあるとすれば、前編の山場でもある「アウステルリッツ」の戦いでは、ロシアとオーストリアは同盟してナポレオンと戦ったということである。ナポレオン=フランスはこの意味ではオーストリアの敵であった。また、第一次大戦ではその帝政末期のロシアが生死を賭けて戦うべき敵であった。ロシア相手の前線に赴く際に、『カラマーゾフ』を背嚢に詰め込んだオーストリアの将官。というのも実に奇妙な感じがする。LWは第一次大戦中を通して軍人であった。『戦争と平和』でいえばアンドレイ・ボルコンスキーのイメージと重なるところがある。

 おそらく、僕自身の原体験としての死生観の一端は、アンドレイ・ボルコンスキーが映画を通して語った事柄に含まれている。といっても、小・中学生の頃の話だから、まさに原体験の一端であるに過ぎない。DVDで『戦争と平和』を見直すことは、個人的には意味があるように思えるのだが、だからといって、そこで語られている「まんま」の人生観を今なお保持しているわけではないのである。



●Quotation (2000/10/15)

The Quotation Pageというサイトで引用句の検索で"Wittgenstein" をキーにして検索したら、以下のようなフレーズが出力された。
If it is true that words have meanings, why don't we throw away words and keep just the meanings?

 もし言葉が意味を「持っている」というなら、なぜ我々はその「意味」だけを取り出して言葉本体を投げ捨てたりしないのか?

 どの著作からの引用であるか不明であるけれども(たぶん『探求』か『青色本』周辺であろう)、いかにもLWらしい。「意味とは何か?」と問う者が問いを発する時点である種の先入観(言葉には意味がある・備わっている・持っている等々)に支配されていることを気づかせる。「辞書」を引き慣れた者には「言葉には意味がある」という感覚が普通にある。「意味」という語にも「実体」を仮設して取り扱うことができるならば、まさに、「意味」だけを取り出して、言葉それ自体は投げ捨てることだってできるはずではないか。でも、それは、たぶん、できない。

 言葉とそれが指し示す「実態・事実」との関係性を考えた場合、「意味」という語の「実態・事実」を端的に示すことはできるのかどうか。もしそれが不能であれば、『論考』の「写像理論」はとりわけ「意味」という語に関しては破綻せざるを得ないであろう。ということも言える。また、むしろ、語には指し示されるべき事実実態があるはず(べき)である。という思考癖に対する警笛でもあるだろう。仮設された実態・事実を前提にした語りは、哲学(特にギリシア哲学とそこからの派生一派)の得意とするところである。仮設に過ぎないのに語りを積み重ねる内にいつの間にか、仮設が既成事実にすり替わり我々の論理の基盤を構成する。ということはありがちなことである。

 途中を省略して飛躍して言えば、「言葉の意味」は「語られ了解されるという言語行為それ自体の中にしか見いだせない」のであるとすれば、「人生の意味」もまた「生きる」ということの中でしか見いだし得ない。「意味」とはまさにそのようにして表現されるしかないのではないか。



●マトリックス (2000/11/7)

 一月くらい前に、PC用のDVDドライブのテスト用に購入したキアヌ・リーブス主演『マトリックス』を観る。DVDにはリージョンコードがあり、その結果、主音声が吹き替えになってしまうので、ついつい吹き替え版で観てしまう。字幕も表示されるが日本語字幕と吹き替えの日本語が全く異なる点が面白い。ほら、翻訳に一様な結果なんて期待できないのだ。という点で。

 さて、『マトリックス』であるが、特撮技術の時間軸の解像度は確かに凄いし興味深い。あと「大乗的」カンフー修練とワイヤードなアクションも。しかし、そうした外見とは裏腹に、これを一つの「独我論的物語」として見るという視点もあるだろう。映画が劇中に仮設している「リアルな世界」はリアルな主体には認識されることない。彼らの「世界」は「イメージ」だけで成立している。そしてその主観的イメージが交互に交錯する「世界」を「マトリックス」と呼ぶのである。独我論的「間主観性」が具視的に表現されているとみることもできるだろう。

 サイバー(パンク)なSFストーリーは、本家W.ギブソンのみならず、ディズニー映画の『トロン』にしても、コンピュータの中と現実とを往復するアイデア・ストーリーという形式を共有することでジャンル分けされる。その種のストーリー構成に殊更の目新しさを感じることはない。というのも、それはコンピュータという現実にある種の形而上世界を閉じこめようとする試みであるから。そのようにコンピュータという「実体」を設定しそこで起こる風景を語ることで、作者も読者も安心しているに過ぎない。だからそれだけではサイバーでもパンクでもないだろう。コンピュータが作り出すイマジナリーな世界で溺れる人間という構図そのものがある種の限界を示している。このような構図で語られる物語と問題の解決はいかなる意味でも二次的でしかないと思われる。そもそもの問題はコンピュータが現存している世界の仮現性にこそあるのだから。そしてこの問題に『マトリクス』の構図は近寄れるのだろうか。

 確かに『マトリックス』が示す「リアル」な世界=未来世界は「救世主」が必要なほどに閉塞した終末的世界である。「リアル」に住まうことを自覚した「終末的世界」の住人は「救世主」を期待し探し求め、結果として彼らの期待通り「救世主」が現れる。「夢的イメージ」の中では「エージェント(悪魔)」が跋扈し、予言者もそこには現れ、さらに裏切り者さえ登場する。そして駄目押しというべきことに、その「救世主」は一度死に、復活まで遂げてしまう。このように、「存在の閉塞感」の打破の物語は「聖書物語」のアナロジーそのままに語られてしまうのである。「カルト」という語の意味を「怪しげな」ではなく、「世界・存在の問題に積極的に答えを出そうとする傾向」と解釈するのであれば、この映画もまた十分に「カルトムービー」であると言えるだろう。

 『マトリックス』は海外で大ヒットしたという。SF映画の多くはその特撮画像の故に観客を惹きつけるが、「安心できる荒唐無稽」でなければヒットには至らない。その安心さこそが「買い」である。西洋の場合、そのポイントの一つは「聖書的なシンボル」である。例えば十字架で封印されてしまう「ドラキュラ」や「エクソシスト」などの例は端的であるが、『マトリックス』もまた「聖書物語」のアナロジーである。ここに海外の観衆は「テクノロジーの高度化=恐れ」に対する安堵感(癒しの予感)を覚えたに違いない。西洋大衆の不安が今もなお、聖書物語の中でこそ安堵するという心理の風景にはある種の不思議さがある。

 この点を逆さに見れば、そこにはある種のマーケティング手法が存在すると言うことができる。つまり、「存在の不安」をテーマにしたエンターテイメント作品で成功しようとしたら、特に海外で成功を目指すのであれば、聖書物語のアナロジーを採用すること。ということだ。もちろんそれがそのまま日本で通用するわけではない。日本で大ヒットした『もののけ姫』はある種の「存在の不安」をテーマにしつつ非聖書物語な結末で終わっている。鳴り物入りの全米公開はさほど成功しなかったといわれているが、いわば安堵感の落とし所に彼らの違和感があったからであろうと私には思われる。『アキラ』とか『ガンダム』、『エバンゲリオン』とかではどうだろう。『マトリクス』の脚本・監督を担当したウオシャウスキー兄弟が『日本のアニメーションを参考にした』と語るように、一連のジャパニメーションの物語が「覚醒」の物語であるのは確かだ。『マトリクス』も然り。ただし主人公「ネオ」が「救世主」として「覚醒」するというあり方が、結局「西洋人」が住まう文化基盤の大枠なのであろうと思われた。

 「覚醒」は、時間に縛られた人間の生においては時間的な過程として現れる。アニメを含めて、映画は時間軸を表現するメディアであるから、映画はその作りによってはうまく「覚醒」を表現し得る。ただ、それでもなお、「覚醒」は到達点への「過程」だ。どこに行くのか。何を「覚醒」するのか。「宗教」はその先を示すところに共通した特徴があると思える。カンフー・カルト・アニメーションである『ドラゴンボール』はある意味で例外的だが、ジャパニメーションの多くはその先を必ずしも具示してはいない。「君が居て僕が居る」という場所以外を具示しているのだろうか。もちろん、だからといって「宗教」が優れているわけではない。ただしかし、観客としての私たちは答えをいつだって欲している。その先を知りたいと思っている。しかもできれば3分間ですぐに全てを欲しいと思っている。

 LWについても、LWの哲学物語の大枠は紛れもなく「聖書物語」であると思える。これは確かなことだ。それだからといって、それが馬鹿げているわけではない。「彼」においてはそうなのだから。LWの前期後期の哲学物語の問題は「覚醒」の過程なのである。私にはそう思える。だけれども、それを無理矢理「仏教」の枠の中でのみ評論する識者が日本に多いのはこれまた不思議な感じがする。凸レンズの眼鏡で世界を論じる者を凹レンズの眼鏡で見て論じることにどれほどの意味があるのだろうか。文化という文脈が異なるのだからやむ得ないのかもしれないが、一次的に語るならまだしも、二次的に評論する際に自ら縛られている文化の大枠に無頓着であるなら、論者であることを止めるべきであると私には思われる。

 キリスト教は仏教をも包摂するだろうか。仏教はキリスト教をも包摂するだろうか。そのいずれの立場にか依拠するのであれば、それは「主義」であることを免れ得ない。個人的には何をも強調することなく、あるがままのそれをあるがままに受け入れることができることができれば、と考えるようになっている。といっても、受容体がなければ受け入れる以前に理解できないであろう。そしてそういう「理解不能」事が無量大数ほどにあるということが、私の限界でもある。






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