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ウィトゲンシュタインとドストエフスキー


 このページでは、ウィトゲンシュタインとドストエフスキーと関係とその類似点について、一読者として思いついたことをまとめてみようと思います。まず、これまでに書いたメモを抜き出してみることにします。(以下の1~11は他の頁で書いた文章の再録)

  ウィトゲンシュタインとドストエフスキーの関連性を詳しく論じた文章はまれであるので、世評的にどのような評価が可能であるかわたしは知らない。しかし、O.K.ブースマの記録によれば、ウィトゲンシュタインは『カラマーゾフの兄弟』を生涯を通じて50回は精読していたという。また、N.マルコムは「数え切れないほど」と伝えている。彼らの証言を重視するならば、ウィトゲンシュタインとドストエフスキーの関連性はもっと熟慮されてしかるべきであると思われる。   



補遺1.ウィトゲンシュタインは本当に「カラマーゾフの兄弟」を50回も読んだのか?(2008.12.26)

ウィキペディアの「カラマーゾフの兄弟」の解説ページには、
哲学者ウィトゲンシュタインは「『カラマーゾフの兄弟』を最低でも50回は精読した」と言っている(第一次世界大戦従軍時の数少ない私物の一つが『カラマーゾフの兄弟』だったため)。
とある。ウィキペディアの記述者の元ネタが何であるかはわからない。が、もしかするとこのページで私がかつて書いたこと(本頁8-9節:2001)に因しているのかもしれない。O.K.Bouwsmaの” Wittgenstein: Conversations 1949 1951 ”には以下のような記述がある。
August 5 1949
Later in the car he mentioned a chapter in Dickens' Uncommercial Traveler--an account of Dickens' visit to an immigrant ship of Mormons and his amazement at finding it all so clean, and so orderly and contrary to everything he had expected. The account of a prejudice. I should read it. He also had read a history of the Mormons-Edward Meier. In the midst of this I had mentioned Ivan as wishing he were a woman of eighteen stone lighting a candle before the ikon. This was wrong, of course, not like Dickens at all. But this led him to talk of The Brothers. He must have read every sentence there fifty times. Alyosha faded, but Smerdyakov, he was deep. This character Dostoyevsky knew. He was real. Then he said that the book did not interest him much anymore. But to Crime and Punishment he should like to return. And he talked about the detail in that book, the house of the murder, the room, the hallway, staircase, etc. But what struck him as most magnificent was Raskolnikov's having forgotten to lock the door. That was tremendous! And after all his planning. (It occurs to me now-like the fly on Pascal's nose.)
 この問題についていくつかコメントしておこうと思う。ひとつは、50回という回数に信憑性があるかどうか。という点だ。上述引用した文章はブースマが1949年8月5日に行ったウィトゲンシュタインとの会話に基づくものだが、本人からの伝聞ではなく、ブースマが感じた印象記述だということ。アリョーシャやスメルジャコフに対するコメントもブースマ本人のものであるかどうか定かではない。また、米国人的感性でいえば、「100%:ワンハンドレッド・パーセント」という表現にもあるように、"100"には「完璧・完全」というニュアンスがあるが、50という数字はその100の半分。完全ではないが、とにかくもの凄く詳しい。というニュアンスで "every sentence there fifty times" と表現したのかもしれない。もちろん、通読回数が実際に何回であったかなどはどうでもよいことではある。

注)ブースマ(Oets Kolk Bouwsma 1898–1978)はネブラスカ大の倫理学・哲学の教授で、1932年頃の教え子のMorris LazerowitzはG.E.ムーアの下に留学した。彼の妻となったAlice Ambroseはムーアとウィトゲンシュタインの生徒で青色本・茶色本の頃の講義を直に受けている。(その時の講義録は邦訳本が出版されている。) 彼らの帰米後、ウィトゲンシュタインの哲学に影響を受け、やはり教え子であったノーマン・マルコムをウィトゲンシュタインの下へ留学させている。つまりブースマはマルコムの師匠筋、指導教授であった。WikipediaのOets Kolk Bouwsmaの項目を参照。(2013/5/4)

 着目点は他にもある。アリョーシャの立ち回りや作中の役割は、スメルジャコフの自殺で終了する。この点で観れば、スメルジャコフの方が深いという指摘。( He was real. : 彼は実存的だ。)最晩年まである意味でアリョーシャを模倣したような生き方をしてきたウィトゲンシュタイン自身の人生への感慨が、この表現には共振しているように感じる。1949年という最晩年期のウィトゲンシュタインにとって、もはや「カラマーゾフの兄弟」は読み終えた書物となってしまっている。しかし彼は、なおさらに「罪と罰」には立ち返らざるを得ないと言う。ウィトゲンシュタインは、ラスコーリニコフが老婆を殺した後にドアを閉めないまま殺人現場から立ち去ったというドストエフスキーの記述に感嘆!の意を表している。それもまた、ラスコーリニコフ/ドストエフスキーの作為なのだと読んでいるようである。(ブースマの手記の記述にはブースマ本人の感想なのか、ウィトゲンシュタインの感想なのか判別着け難いという解釈上の困難さがある。この点を考慮した編者はウィトゲンシュタインに近しい間柄であったヨーリック・スイマイシーズに監修を求めている)

いずれにせよ、ウィトゲンシュタインの後期思想は、ドストエフスキーの読み込みと並行的に深まっていったのは確かなことである。それは彼の後期思想の解釈的理解へ至る視座を提供するであろう。ただしかし、問題はまだ残っている。それは「なぜ、後期思想は展開されなければならなかったのか?」というウィトゲンシュタインが後期思想を展開するモチベーション=内面的な必然性の有り様である。

以下の文章は、およそ10年前に書いた拙文である。駄文ばかりではあるが、そのままにしておこうと思う。


1.ヨハネ伝とウィトゲンシュタイン(98.2.23)

またまた外的な視点から。ヨハネ伝とウィトゲンシュタインというテーマで。

『ウィトゲンシュタインと宗教』20頁。法政大学出版局。

『二人(ドゥルーリーとウィトゲンシュタイン)が四福音書について比較していたとき、ウィトゲンシュタインは、彼が好きなのは「マタイによる福音書」である、と言った。そして彼は、共観福音書に比べて第四福音書を理解することは困難であると思う、と付け加えた。しかし彼は、さらにこう言った、「もし君が、神が人間になった、という奇跡を受け入れることが出来るならば、そのような困難は全くなくなる。なぜならその時は、<神が人間になった>といった出来事の記録はどんな形をとるべきかについて、私はいうことができないから』

マタイ伝は「山上の垂訓」と呼ばれるイエスの説法が詳しく語られている福音書であり、共観福音書はそのマタイ伝の他にマルコ伝、ルカ伝の三書。第四福音書とはヨハネ伝のこと。ヨハネ伝の冒頭には前にも書いたように

初めに言(ことば)があった。
言は神と共にあった。
言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。
成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
言の内に命があった。
命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。
暗闇は光を理解しなかった。
とあります。このヨハネ伝のいう「ことば」を「言語ゲーム」と読み換えてみる。ということは可能であるように思えます。ただ、ヨハネ伝のいう「ことば」と「言語ゲーム」とは等価ではない。これも確かなことのように思えます。これが等価になる場合とはイエスの行った言語ゲーム、あるいは旧約の預言者達の言語ゲームがそれであって、ふつうの人間の為し得る言語ゲームは「闇」に満ちている。そう考えていたのではないか。

 このように書くこと自体、あまり大した意味を持たないように思えます。というのも、このような視点で発語してしまうこと自体はたぶん、ウィトゲンシュタインの「行儀作法」に反する部分に入り込んでいるから。ウィトゲンシュタインの哲学をある意味で、単なる「基督教文学」というカテゴリにおとしめることになるから。外的な視点からすれば、実はそう理解する方が容易だと思えるのだけれど、つまり、トルストイやドストエフスキーやキルケゴールの列に並ぶ基督教文学として彼の哲学を文学的に理解する。という外枠は、たぶん、宗教を括弧でくくれてしまう人にとっては、それなりの視座を提供することになると思えます。

 後期のウィトゲンシュタインの言語ゲームとルールという概念(?)の扱いは極めて意識的に平坦な扱い、つまりそれをさらに細かく内分するような概念の導入をほとんど忌避していたも同然であるような議論の方法になぜ固執していたのか? この部分のこだわりが、他の哲学な人々との断層をなしていると思われます。

『反哲学的断章』旧版  青土社
P.175
ほかの人がどんどん歩いていくところで、わたしは立ちどまったままである。

この「立ち止まりの思想」とも言うべき立場にウィトゲンシュタインを立たせ放しにさせたのは何なのか? なぜ?

 前期・後期を通じて、世界はあるがまま、言葉で不必要にいじってはいけない。というようなスタンスを感じます。言い方を変えると、「言葉は恣意的に用いられてはならない。」しかし、恣意という語を彼はほとんど使っていない。論理学者は詩人にはなれない。ということなのかもしれません。いずれにせよ、「探求」は「立ち止まり」の世界なので、その深みに入る前に、なぜ「立ち止まる」のかということを考える視点だけは失わないようにしないと、大事なものを見失ってしまいそうな気がするわけです。



2.ウィトゲンシュタインとドストエフスキー(98.6.9)

 ウィトゲンシュタインはロシア文学、特にトルストイとドストエフスキーの影響を受けていると言われている。といっても、私の知る限りでは彼の独白の中からその影響を推し量るのは難しい。

『反哲学的断章』旧版  青土社
P.156-157(1947)
 トルストイは「芸術作品は『感情』を転送する」というまずい理論を立てたが,わたしたちはそれから多くのものを学ぶことができるのではないか。--- じっさいわたしたちは、芸術作品のことを、感情表現そのものとは呼べないにしても、感情的表現、または感情つきの表現と呼ぶことはできるだろう。だから「その種の表現がわかる人は、その種の表現と同じように『振動して』、その種の表現にこたえるのである」とも言えるのではないか。「芸術作品は、なにか別なものを転送するのではなく、芸術作品じしんを転送しようとする」と言えるだろう。それはちょうど、わたしがだれかを訪問する場合に似ている。つまり、わたしは、たんにそのだれかにこれこれの感情を呼びおこしたいと思うだけではなく、むしろ、なによりもまずそのだれかを訪問したい。そしてまた当然のことだが、歓迎されたいと思うわけである。
 だから、「自分が書くさいに感じることを、読者には読むときに感じてもらいたい、と芸術家はのぞんでいる」などと主張することは、ますますもってナンセンスなのだ。(たとえば)ひとつの詩を理解するということは、その詩のつくり手がそう理解してもらいたいと思うような具合に理解することである。この事情はわたしにもよくわかる。っしかし、「詩人がその詩を書くさいになにを感じたのだろうか」ということは、わたしにはまったく興味がない。

P.202(1948)
 きみの書くものは理解しにくいから、君は下手糞な哲学者なのではないか。きみがもう少しましな人間なら、むずかしいことをわかりやすく書くと思うのだが。----ところで、そんなことができるといったのはだれだ!? (トルストイ)  

 これらの文章を読む限りでは、さしたる影響は読み取ることはできない。

 状況証拠としていえば、ウィトゲンシュタインはケンブリッジに戻ってから、パスカル夫人を家庭教師として仰いで「ロシア語」の勉強を行い(1934~1935年)、何度かロシア(ソビエト)への移住を計画し実行に移そうとして試みたことがある。という点が気になる。実際にロシアへの旅行も行っている(1935年9月)。そして1936年は知人に対する懺悔告白訪問シンドロームに陥っている。

 また、マルコムの「ウィトゲンシュタインと宗教」のP17にある引用には

 しかし --- 事実我々はそう言われているのだが ---、キリスト教は祈りの言葉を沢山言うことではない、ということを思い起こせ。もし君と私が宗教的な生活を送ろうとするならば、我々は宗教について多くを語るべきではなく、我々の生活の仕方が変わらなくてはならないのである。私の信じるところによれば、君が他の人々を助けようとするときにのみ、最後には君は神への道を見出すであろう。

 「生活の仕方を変える」という主題はドストエフスキーの主題でもあった。最も一般的な「罪と罰」のエピローグにこうある。


『罪と罰』新潮文庫下巻 P.457
それに、こうした一切の、一切の過去の苦痛とは果たして何であるのか! ....(中略)....いま彼はなにごとにもせよ。意識的に解決することが出来なかったに相違ない。彼はただ感じたばかりである。弁証の代わりに生活が到来したのだ従って意識の中にも、何か全く別なものが形成さるべきはずである。


 ラスコーリニコフはソーニャの献身的な愛を通して牢獄に入ってはじめて自由を得る(ドストエフスキー的な逆説!)。それは「新しい生活」なのである。ウィトゲンシュタインもまたおそらくはドストエフスキー的な「新しい生活」を欲していたに違いない。さもなくば、ロシアへの移住など誰が計画するだろうか。ウィトゲンシュタインはキリスト者(本人は「福音伝道者」だと自称していた)ではあったが、マルキストではなかった。(トラッテンバッハの住人は彼を「アカ」とみなしていたようであるが)その彼がロシアへの移住をなぜに望んだのか。それは、ソーニャの台詞にある


『罪と罰』新潮文庫下巻 P.423
 四つ辻へ行って、みんなにお辞儀をして、地面に接吻なさい。だって、あなたは大地に対しても罪を犯しなすったんですもの。そして大きな声で世間の人みんなに『わたしは人殺しです!』とおっしゃい。


 このソーニャをして語らしめたドストエフスキーの言葉には迫力がある。ドストエフスキー好みな人々にとって、ロシアの大地はこのように実に特殊な大地なのであるということが言えると思える(^_^)。

 バートリーの本では、ウィトゲンシュタインはトラッテンバッハでの小学校教師赴任時代にはドストエフスキーの熱心な読者であることが示されている。
『ウィトゲンシュタインと同性愛』 P124 未来社 W.バートリー
 事実、彼らの関係(同僚ノイルーラーとウィトゲンシュタイン)は非常にうまくいっていた。彼らはラテン語で、会話を交わし、また手紙を交換していたと言われている。そして、ウィトゲンシュタインは、繰り返し、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読んで聞かせたのである。


 そう、ウィトゲンシュタインはラテン語には不自由していなかった。ということはアウグスティヌス等も原典で読めた。ということを意味する。

 いずれにせよ、「弁証にとってかわる生活」というドストエフスキー的なスローガンが後期のウィトゲンシュタインの核の一つだと思われる。彼の後期の思想はある意味でこの強力な磁核を中心に反転して形成されたと言える。哲学から弁証の除去すること。ありのまま事実を記述すること。議論のための概念を捏造して議論に導入しないこと。等など。

 さて、振り返ってみて思うことがあるとすれば、ウィトゲンシュタインが残した個人的な言行録の中でさえ、やはり彼は内心を吐露しつくすような核心を明らかにしているようには思えないということである。特に重大な影響を受けた思想や人物に対するコメントの多くは沈黙で封印されている。つまり「私小説的な独白」が欠落しているように思われる。私自身、この一連のスレッドで記していることは、いわば外堀の外から外堀がどうなっているのかの観察録に過ぎない。内堀から中は見えないから想像するしかないのである。

P.S.  もう一つの「鍵」に関するコメント(反哲学的断章P146 1946年)

 錠前師が置いた場所に、鍵が永遠に置き去りにされていることがある。錠前をあけるようにと錠前師がきたえあげた鍵なのに、まるで使われることがないのだ。

 げげ、1946年にも1930年と同じ事を書いている。ということは、「探求」にも、きちんと鍵は吊されてある。ということではないか。


3.なぜ「カラマーゾフ」なのか?(98.8.4)

 マルコムの評伝には、ウィトゲンシュタインがドストエフスキーの「カラマーゾフ」を「数え切れないほど」繰り返して読んだ。という伝え書きがある。バートリーの評伝にも、トラッテンバッハ時代に同僚に何度も「カラマーゾフ」の話しを聞かせた。という記述があります。ウィトゲンシュタインにとって、「カラマーゾフ」は特別の位置を占めていた小説であった事だけは確かな事です。「カラマーゾフ」はご存知の通り、ドストエフスキーの数ある著作の中でも最大長編であり、あれを何度も繰り返し読むのは、ドストエフスキー通でもそう易々とできるわけではありません。しかし「数えきれないほど」彼は読み返していた。

 なぜ、と問う前に、ウィトゲンシュタインの兄弟のことを考えてみよう。彼は男5人、女3人の8人兄弟の末弟であった。そして数多くの評伝が示している通り、長兄と次兄は自殺しており、すぐ上の兄パウルは第一次大戦で右腕を切断する大怪我を負っている。そしてこの事実のみが語られるだけで、そのような境遇をウィトゲンシュタインがどう感じていたのか。それを伝える記述はほとんどない。であるから、自殺した兄達をウィトゲンシュタインがどう思っていたのか。想像することしかできない。しかし、実を言えば、これを想像する事は私には不可能である。私の近親者に自殺者はいないしまして兄もいないのであるから。

1902年 長兄ハンス自殺  (13才)
1904年 次兄ルドルフ自殺 (15才)
1915年 三兄クルド自殺  (26才)

 それでも、想像力の蜘蛛の糸を結びつけるものがあるとすれば、ドストエフスキーの「カラマーゾフ」。ウィトゲンシュタインの謎多き30代の愛読書である。悪業の血に染まったカラマーゾフの兄弟達。そしてフョードルという強辣な父親が織りなすプロットを、ウィトゲンシュタインは自らの境遇に重ねて読んでいたのではないだろうか。バートリーの評伝にもある通り、ウィトゲンシュタインが「カラマーゾフ」を熱心に読んでいたのはトラッテンバッハ時代。もちろん、それ以降も繰り返して読んだのだろうけれど、第一次大戦の前線から復員してきた後、「論考」の出版の目処をつけて、遁世してしまって後。なのである。時期的には兄弟の自殺の記憶の生々しい頃だといえる。そしてこの頃のウィトゲンシュタインの書簡では、彼が悩み事で苦しんでいたことを伝えるものが多い。これを「ホモセクシュアル」を原因としたものだ。という説があるが、本当にそうであったのか。血のつながった兄達3人の自殺によって置き去りにされた弟の想いはそんなことだけでいっぱいになってしまうのだろうか。カラマーゾフの兄弟の末弟を思い浮かべること。アリョーシャ。兄弟の誰からも因業な父親からも愛された「宗教狂い」。誰の悪口も言わず、赦す人。

 この種の話しは、おそらく、他人に話すような内容ではあるまい。しかし、なお、惜別感、罪跡感、宿命感、悲しみ、怒り、苦しみなど、諸々を生き残った者は背負わざるには居れなかったのであろう。しかも、それは発語できない言葉として。そうした発語し難い個人的な想いを抱え込んでいたウィトゲンシュタインが、ドストエフスキーに接して彼の小説に惹かれたのは理解できそうな気がする。まして、「カラマーゾフ」であれば、なおさらのことである。「カラマーゾフ」は大作であり、私の手には負えないが、カラマーゾフの主題である「親子」「兄弟」「金」「キリスト教」「聖人」「淫蕩者」「無神論」「キリスト(教)への疑念」「赦し」「癒し」といったドストエフスキーが提示したテーマにウィトゲンシュタインが極めて熱心な親近感を持っていた事だけは確かな事だ。

 ウィトゲンシュタインが私的感覚の言語化の問題を取り上げる時、それはただ単に歯の痛みのような例で考えていたわけではない。人間が生きていく上で抱え込む悩みごとは、そうした私的言語の領域に属する。それは発語し得るが理解されがたい。ドストエフスキーの大きさはそうした悩み事をいわば「カラマーゾフ」という語に集約し細々としたプロットを用いて精緻に描き切ったことにある。ドストエフスキーの職人的小説家としての精密さはウィトゲンシュタインを満足させるものであったはずである。そして精緻なるがゆえに、のめり込めたのではないのか?

 ウィトゲンシュタインは生涯を通じて、故郷のウィーンの家族の元へ里帰りを繰り返していた。二次大戦中の数年を例外として、晩年ケンブリッヂを去った後アイルランドで「探求」の後半と格闘していた時でさえ。そして姉たちの死をも看取っている。ウィトゲンシュタインはよく「孤高の哲学者」であると言われる。なるほどそうであろう。しかし、だれよりも兄弟達を愛し想い懐かしむ人であったことだけは間違いない。そういう意味で、「カラマーゾフ」の兄弟達の会話に、彼は「失われた言葉」を見出して涙したに違いない。話をしたくても彼の兄達はすでにいなかったのだから。 


4.全ては許されている(98.9.12)

 ウィトゲンシュタインが「言語ゲーム」という基本アイデアに導かれたのは、マルコムの回想録によれば、ある日フットボールがプレイされているグラウンドのそばを通りがかったときに思い浮かんだインスピレーションによるもの。だということですが、それだけなら木からリンゴが落ちるのを見て「万有引力の法則」に思い至ったニュートンに類する印象を与えるだけで、あまり面白くない。ここでは、私なりの一つの仮説をスケッチしてみようと思います。

・家父長として絶対的な父親がいて、精神的にまた人生の選択を左右するような圧力が家庭内にあったこと。
・長兄ハンス、次兄ルドルフ、三兄クルドの3人の兄達が、おそらくルードヴィッヒにとっては「突然」という状況で自殺してしまう。このような衝撃を彼の思春期から青春期にいたる間に3度も経験させられたこと。この事件に対してなんらかの決着をつけなければならないと考えていたであろう事。
・若死への望みのもたげと第一次世界大戦での最前線での戦闘志願による「死」への引きずりが果たせなかったこと。若き遺書としての「論理哲学論考」。
・大戦後の隠遁とその中でのドストエフスキーへの傾倒。
・カラマーゾフ:父親殺し、人生を語り合う兄弟への憧れ。
・カラマーゾフ:叙事詩としての「大審問官」。[全ては許されている]というテーマ。
・死に値するほどの悩み。あるいは苦悩への異義と受容。
・ことばによって構成される自我:独我論。
・何を考え語るとも、言葉で全てが可能であり不可能だ。という実感。

 三人の兄を彼らの自殺によって失った弟にとって、この衝撃に対する苦悩を引き受けること。それは単に身内の不幸を引き受ける。ということに留まってはいなかったはず。自身の生と死を凝視することも意味したに違いない。一次大戦では戦車や航空機などの大量殺戮につながる兵器の出番は二次大戦ほどには多くはなかった。従って膠着した白兵戦が延々と続いたという。毎日が敵と面と向かった人間同士の殺し合い。そういう戦争の最前線での戦闘を志願し、塹壕の中で書かれた「論考」。それは(悪魔に?)死に引き寄せられるようにしてたどり着いた死の淵で書かれた哲学書であった。自らの命と引き替えにするようにして書かれた「世界とは何か」という問題への回答。そして決着させたつもりであったはずが、やはり未解決であることに悩まされ続ける。たぶん、そういう小学校教師としての6年間を含むケンブリッヂ復帰までの10年間。ドストエフスキーの小説は彼に大いなる慰めになったに違いない。神学に入り込まずにかといって無神論に堕さぬまま哲学に続けることの可能性をドストエフスキーから学んだのであろう。ドストエフスキーは「全ては許されている」と語る。そして後年、ルードヴィッヒもまたことばにおいて何を語ることもできる。と「言語ゲーム」について語ったのだ。私にはそう思われる。そういう結論なしに3人の兄の死を肯定することは困難だと思われる。これは対照して読むに値するように思われる。 


5.僕の人生は素晴らしかった、とみんなに伝えて下さい(98.10.18)
カラマーゾフの兄弟(新潮文庫下巻P.94)より
「あのね、コーリャ、それはそうと君はこの人生でとても不幸な人になるでしょうよ」突然どういうわけか、アリョーシャが言った。
「知ってます、知ってますとも。ほんとにあなたは何もかも前もってわかるんですね!」すぐにコーリャが相槌を打った。
「しかし、全体としての人生は、やはり祝福なさいよ。」
  ウィトゲンシュタインは死の床にて『僕の人生は素晴らしかった、とみんなに伝えて下さい』と最後に語ったと伝えられている。カラマーゾフを読み直す中でアリョーシャとコーリャのこの会話から、ウィトゲンシュタインのこの言葉が思い出された。ただ、それだけの話だといえば、それだけの話であって、ウィトゲンシュタインが死の床にあってなお、ドストエフスキーを引いた。と言うつもりはない。

 アリョーシャや、コーリャという人物像はドストエフスキーにとっての理想の写像なのであろうか? 私には少々把握しがたいところがある。アリョーシャは兄ドミトリーやイワンさらには彼らを取り巻く女性たち、その他の人々に対するナレーターを超えないように思える。浄化された視点で事実を語る。という視点から逸脱しない。ドストエフスキーの基本的なテーマである「苦悩を経て新たな生活を勝ち得ること」という意義をこの2人は自覚的に了解している。というより、いわば作家の代理人として作家の視点を体現し小説内で動き回るかのごとくである。この2人には年に差があるが、しかし良き友人たり得る。そう描かれている。しかしアリョーシャにも、コーリャにもまだ「生活」が欠如していると思える。ここに若干、不足感を感じるが、それを「希望」と読み換えることでバランスがとれるのかもしれない。

 アリョーシャも、コーリャも、自分自身の苦悩と直面する以前に、他者の苦悩を前にして彼らの取り得る最大限の努力を払う。宗教者としての権威を振りかざすのではなく、人間の取り得る行為としてなし得る限りのことをしようとする。コーリャは自らのなし得る限りの努力で幼い兄弟や仲間の面倒をみる少年として描かれている。また、アリョーシャといえば、年上の兄達やその婚約者達の苦悩を目前にしてそれにとことん付き合ってしまう。

 ウィトゲンシュタインは、おそらくは、他人の「苦悩」にとても敏感な人であった。例えば、ドゥルーリーが職業の選択について誤ったのではないかという悩みを打ち明けたことに対するウィトゲンシュタインの手紙(ウィトゲンシュタインと宗教P213~216)にあるように、他人の悩み事に接した場合であっても、それを他人事に留めることなく徹底的に考え抜いて助言する労を厭わない人であった。このような姿勢の故に、彼には多くの弟子ができたのであろうし、彼の魅力の底流になっている。それは彼の哲学の基本でもあり、我々は残された著述の中にそれを感じざるを得ない。

 ウィトゲンシュタインの哲学には、確かに「独我論」が底流にある。自我の絶対的孤独性を説明し得なければ、おそらく苦悩を説明できないことによるからである。しかし、独我論は、人間の孤独が何であるのかという説明しかできない。揶揄を含めて言えば、独我論者には「良いSEX」は不可能であろう。(^^; ということがいえるかもしれない。苦悩や喜びを他者と分かち合う。という素朴な感性に、実は独我論的孤独がすでに破堤している事実が見えるのはないか。独我論的知性は、その事実を「信じる」ことでしか乗り越えれないであろう。事実である。という表現と事実であると信じる。という表現とが紙一重である妙味がそこにはある。ウィトゲンシュタインの後期の議論の収斂する点の一つはこの点にあると言える。




6.善悪の対立について(2000/1/10,1/15 改)

 「善」なる神の創造した「善」なる世界になぜ「悪」があるのか。という問題は若き日のアウグスティヌスを悩ませた大問題でした。そのアウグスティヌスは晩年に至り、『エンキリディオン』という書物の中で
Adeo omnipotens et bonus ut bene faceret etiam de malo.
「神は悪をも善用なさるほどに、全能であり善なる方である」
(『アウグスティヌス講話』P144. 山田 晶, 新地書房 1987)

と語ったということです。

(ヨハネ伝冒頭より引用)

初めに言(ことば)があった。
言は神と共にあった。
言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。
成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
言の内に命があった。
命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。
暗闇は光を理解しなかった。


 ことばがその語法において、叙述可能な限りの範囲においてあらゆる叙述とそのあらゆる否定形を可能としているという意味において「真偽」は二項対立的であるが、ことばはそれ自体は一項的である。

論理学はいわば、「悪」であるところの「偽」を排除するための論理として機能すべきものであって、例えばLWの『論考』もそのような「真偽」判定のための方法論を提示しているものです。1929年の時点で明らかにされている『倫理学講話』でのLWの考えはやはりその「真偽」が論調の基盤になっているのは明らかでしょう。

 ドストエフスキーの小説を読むと、「善悪」は必ずしも二項対立する要素として割り切られて書かれているとは思えません。例えば、『カラマーゾフ』の作中で、ゾシマ長老の所への巡礼者として現れる夫殺し(?)の女性に対する描写のように。

 だからと云って、二項対立的に「善悪」や「真偽」を理解する形式が間違っているのか。といえばそういうわけでもないのでしょう。LW自身はいわゆる後期の思想が深まる中で、おそらく『論考』で示したような論理的理解の形式を「世界理解のための絶対形式」から「単なる一形式」に格下げしただけに過ぎないと思えます。

 それは正しい、しかし、語り得ることを全てを云い尽くしているわけではない。

そういう印象を受けるわけです。『倫理学講話』以降の後期、LWは「写像理論」を含む前期思想の「絶対化」のためのメカニズムを突き崩して、相対化するとともに、より包括的な思索へと向かったということなのだと思えます。


7.牢獄としての肉体 -2- ドストエフスキーの周辺(2000/12/12)

 自我は肉体あるいは言葉の囚われ者であろうか。囚われているのであれば、自由になることもあるだろう。自我が肉体に組込まれた単なるOS(Operating System)に過ぎないのであれば、肉体の死滅と共に自我の機能は停止するだけであろう。独我論者といえども睡眠によって毎日毎晩、世界は停止しているではないのか?

 ノーマン・マルコム『ウィトゲンシュタイン』 P56 講談社新書

 ついでながら彼はドストエフスキーの作品も賞賛していた。『カラマーゾフの兄弟』は数えきれないほど何度も読んでいた。だが、作品としては『死の家の記録』が最高作だと言ったことがある。


ドストエフスキーの作品の中で『死の家の記録』をウィトゲンシュタインは推していたというマルコムの指摘は興味深い。『死の家の記録』は小説である。とはいうものの、ペトラシェフスキー事件に巻き込まれてシベリア流刑になったドストエフスキーが自らのラーゲリ体験を元に書いた作品であるから、想像上の作為的な作品ではない。そこでの記述は淡々としながらも詳細微に入るようなリアリズムに満ちている。まさに、「事実を事実として記述してある」かのごとき印象がある作品である。この点で、LWが『死の家の記録』をドストエフスキーのベスト作品と推すのはわかるような気がする。

 (ウィトゲンシュタインの兄パウルは、戦傷で片腕を失いつつも捕虜となってロシア国内の収容所を転々とさせられたが、シベリアのオムスクで収容された強制収容所「クレポスト(ロシア語で「要塞」を意味する)」に収監されていたことがある。実はそのオムスクの強制収容所こそが、かつてドストエフスキー自身がペトラシェエフスキー事件連座で有罪とされ服役した獄舎であったという。その獄舎こそが「死の家の記録」の舞台であった。「ウィトゲンシュタイン家の人々」 122頁 2011/7/10)

 もし、自我が肉体という牢獄の中に閉じこめられているのであるとすれば、その肉体が監獄に閉じこめられていたとしても大差はない。肉体が監獄から自由であっても、精神は自我という監獄に閉じこめられているかもしれないのだから。しかし、これは観点という位相の相違がもたらす視差の結果、見え方が違うのである。モータルな存在としての人間は監獄から自由であっても死から自由であるわけではない。若死にする者も長寿を全うする者も、同じようにゴルゴダの丘への行進を続けているだけに過ぎないのかもしれないのだ。

ウィトゲンシュタイン全集第5巻『ウィトゲンシュタインとウィーン学団』166頁

 宗教の語りはまた「比喩」でもない。何故なら、さもないと人はそれを比喩でなく語ることも出来ねばならないであろうから。宗教の語りは言語の限界に対する突進であろうか。言語は決して牢獄ではない。

 ウィトゲンシュタインのような哲学者が「言語は決して牢獄ではない」と語ることに、私はとでも含蓄を感じる。思いつくままに言うと、ひとつは、言語の牢獄性を否定するということは、実証主義とは無縁である視座にある。ということを意味していると思えること。LWのような厳密性を重んじる哲学者においてさえ、言語の限界を超えうる何かは語り得ると信じるところがあるのだということ。次にそれは、相対主義の立場にも居ないということ。相対主義は絶対主義を含まないという限界を有するが、言語においてその相対主義を越えうることを予感しているというニュアンスがこの表現には含まれている。相対主義を事大に掲げるだけにとどまるのであれば、それは「ことばの牢獄」に安住していることを宣言しているようなもの、と私には思える。さらに、「言語の牢獄性」を否定することは「言語の限界は私の限界すなわち世界の限界である」というような独我論的認識との決別をも意味するであろう。    ドストエフスキー的逆説とは、非自由(監獄)の中にあってさえ自由は得られるという思想をいう。たとえば『罪と罰』のラスコーリニコフもまた「監獄」において「新しい生活」を得るように。『死の家の記録』のドストエフスキーは小説とはいいつつも、いわば事実を叙述するタッチで淡々と記述する。この文体にLWはいたく惹かれるものを感じたのであろう。 
『論理哲学論考』ドイツ語原文

1. Die Welt ist alles, was der Fall ist.

 「事実(独:Fall)」を記述する。という「叙事の思想」はLWの思想の端的な特徴である。それは「事実」を叙述することは「事実」を「ことばの存在」に置き換えること。「叙事」はすなわち「世界がある」という「奇跡」を「命題の存在」に賭けて宣言することに他ならない。ということでもあるだろう。それはとりもなおさず、「叙事」を行う者は世界が存在するという「奇跡」の証言者である。と理解することに他ならない。この意味で、身近な「事実」を「奇跡」と了解できるのであれば、「監獄」にあるか「牢獄」にとどまるかは問題とならない。神的な奇跡物語や神話さえも不要であるだろう。もちろん、このように表現されるLW的理解は「宗教的」な「言語ゲーム」の範疇である。首肯できる人もいるであろうしそうでない人もいるであろう。「事実」の見方は人さまざまで一様であるわけではない。


8.Conversation 1949 - 1951 (2001/4/24)

   今日、英国のamazon.co.uk から航空便が届いた。お目当ては、1968年にNHKでも放映された『Prisoner No.6』の全巻揃いのBoxセット(約44ポンド)だが、一緒に注文していた本も同時に届いた。O.K.Bouwsma の遺稿の中から、ウィトゲンシュタインとの関わりについての手記を一冊にまとめた本 『Conversation 1949-1951』がそれである。100頁強。、大学の1年生向けの講読本的な趣のある薄目の冊子だ。小一時間ほどで40頁近くも読み進んでしまった。

   ブースマ(Bouwsma)は、1949年にN.マルコムの招きで来米したLWと出会っている。マルコムの友人ということでLWと会うのだが、その後幾たびもLWと哲学的議論を行う機会を得た。また1950年には帰英したLWを追いかけるようにして英国に渡り、Oxfordのアンスコム宅に寄宿していたLWとさらに議論を続けることになる。LWは1950年にペバン博士に癌であることを告げられ、1951年4月に博士宅で死去することになる。

   ブースマはこうした経緯からみれば、明らかにLWのお気に入りの一人であった。彼の手記にはLWとの会話はdifficultなものであって、彼が1950年にノルウェーに旅立った際には「ほっとした」と記してあるほど「疲れる」教師であったという。本文はまだ読み始めたばかりなのでなんとも言えないけれど、とにかく、LWとブースマは会ったその日から、倫理の問題を話し合い、「絶対性(absolute)」「普遍性(universal)」などについて、さらに「プライド」について、特に、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を相互的理解のコンテキストとして議論したようである。「プライド」については、トルストイの『戦争と平和』に出てくる有名な一場面(ソビエト版の映画『戦争と平和』ではポスターの一部を飾ったシーンでもある)、アウステルリッツでオーストリア・ロシア軍が敗走するのを引き留め反撃させるべく、軍旗をかがげて万歳(ウラー)反転を行うアンドレイ公爵のことなども話題になった。

   ウィトゲンシュタインにとって『カラマーゾフ』は生涯の愛読書であった。同書11頁でブースマは、LWは最低でも50回も繰り返して『カラマーゾフ』を読んだのではないかと書いている。LWの伝記に『カラマーゾフ』が登場するのは確か1917年前後、第一次大戦従軍中に最前線へ赴く際の背嚢にそれを詰め込んだ。という記録が最初だから、実に30年以上も読み続けていることになる。単純計算でいえば、毎年2回弱は読み直していたということになる。思うに『カラマーゾフ』はLWにとって友人探しのリトマス試験紙であったのではなかろうか。ブースマがLWと最初に出会った日に『カラマーゾフ』の話が出て、翌日はむしろLWがブースマと話をしたくて場を作ろうとしていたというニュアンスが書かれてある。LWはスメルジャコフにポイントを置いているようだ。また、『カラマーゾフ』を読むと『罪と罰』と対比せざるを得ない。ともある。振り返ってみれば、エンゲルマンや小学校教師時代のノイルーラー。ドルーリーなど、親しい友人とは常に『カラマーゾフ』が共有されている。

 オックスフォードでは、アンスコムやスマイシーズとの関わりにも触れている。『地下生活者の手記』についての議論では、スマイシーズに読むように言われていたとある。LWはそれを1~2年前(おそらく二次大戦後)に読んだとも。さながらドストエフスキー研究会の趣さえある?。

   ウィトゲンシュタインのブースマへの最後のことばは「私とスマイシーズとブスーマと三人でまた議論をしよう」というものであった。

 
9.Conversation 1949 - 1951 -2-(2001/4/25)

 『Conversation 1949 - 1951』という小冊子は、ウィトゲンシュタインの最晩年の時期を伝える記録としてとても有益だ。読むに値する。昨日航空便で届いたのだが、とりあえず読了した。ただし辞書を引かずに読み飛ばしたところも多いから精読したとは言い難い。それでも、難解な表現はあまりないので。おおよそ、おおよそ。

   伝記としては、次のような書籍がある。

 ●全般的
 回想のウィトゲンシュタイン(ノーマン・マルコム:法政大学出版局/講談社)
 ウィトゲンシュタイン(レイ・モンク:みすず書房)
 ●第一次世界大戦終了まで
 ウィトゲンシュタイン評伝(マクギネス:法政大学出版局)
 ●復員後からケンブリッジ復帰まで
 ウィトゲンシュタインと同性愛(バートリー:未来社)
 ●後期~アイルランド時代
 『Danger of the words』(ドルーリー:未入手)
 ●1949~1951
 『Conversation 1949 - 1951』(ブースマ)

   現時点で、ドルーリーの著書『Danger of the words』が版元で在庫切れで入手できないのが残念。ドルーリーの本では、『カラマーゾフ』のゾシマ長老についての議論が書かれてあるということでだ。

   ブースマの記録の中で面白いと思われたのは、デカルトの「コギト」についてウィトゲンシュタインの論評があることだ。LWは「我思う、故に我あり」というセンテンスは同一時制では話し得ないという点を強調している。「故に」と結論づけられる時点ですでに「思う」ということは「思った」にしかなりえない。その点でこの表現にはある種の混乱(conflict)があると指摘している。

   戦争が人を変えるという点。LWは一次大戦後、ラッセルと会った際に、司教になったホワイトヘッドへ「よろしく」と伝えて欲しいと託したが、ラッセルはなにもしなかった。というのも、ホワイトヘッドは戦争でドイツ嫌いになっていたから。また、ケンブリッジに学んでいたルーマニアの学生は出身国の故に帰国させられたが、彼は戦争によって戦死。戦後、戦没者の慰霊碑にその学生の名を刻むか否かで議論があり、結局刻まれたが、別扱いとなったこと。

  LWがアメリカに着いた直後、イタリア人の少年の靴磨きがあまりに上手だったので倍払いをしたこと。逆に帰国直前、タクシーで港へ向かった際、そのタクシーはいわゆる雲助タクシーで4ドルまでカウントしたところでメータが止められ降りる際には7ドルを請求されたこと。その件で警官を呼んで結局4ドル半を支払ったこと。等々。

   だから、一次資料は面白い。二次的・三次的資料は何を読んでも結局新しい発見に遭遇することはまれだ。だけれど、直接的な体験を元に書かれた一次的な文章は我々のような読者に「発見」の喜びを与えてくれる。


10.バフチン兄弟(2001/5/7)

  現代ロシアの哲学者、言語学者、文学批評家としてつとに有名なミハエル・バフチン(M. Bakhtin)は、ドストエフスキー論を「ポリフォニック性」という概念で解き明かしていることで知られている。不勉強さのゆえに私はバフチンを今までよく知らないでいた。それで昨日、図書館でドストエフスキーの関連本の一冊として解説書を借りてきた。

   実は、先日、amazon.com から別便が届いた。デレク・ジャーマンのビデオ『Wittgenstein』とLWの解説書が二冊、他に「プリズナーNo.6」のファン向け解説書一冊。ビデオについていえば、英国のTV局「チャンネル4」制作作品なので、いわゆる90分番組的な構成だ。シナリオは単行本として入手が可能。一見しただけなのだが、なんというか、飾りのない黒を背景とした舞台劇風の演出で、「プリズナーNo.6」でいえば第16話「once upon a time:最後の対決」によく似ている。LWその人をデフォルメした上で子供の頃から編年的に見せるという構成。ロンドンには無数の演劇小屋があるがそのどこかで演じられても不思議ない雰囲気の作品だ。

   今回手に入れた解説本の一冊が『Wittgenstein's Ladder』。著者のMajorie Perloff はウィーン生まれの詩人、文学者。子供の時にナチの圧政を逃れて米国へ亡命してきた人物で、個人史的にLWに親近感を強く感じているという。まだ読み始めたばかりだけれど、詩学の低迷した現状にあって、LWが現代の欧米の詩人に広く受け入れられているという指摘はとても面白いと思った。21世紀の現時点で、LWがどのように受け入れられているのか。そうした話に接する機会はまれなので、現状を知ろうとしたら結局この種の新刊の洋書を読み漁るしかない。実は、そこで、バフチンの名前が出てきた。しかもミハエル・バフチンではなく、彼の一つ違いの兄のニコラス・バフチンである。

   レイ・モンクの評伝のインデックスを調べると、ニコラス・バフチンは3ヶ所で触れられている。要は、後期ケンブリッジ時代、LWがロシアへの移住を計画していた時期に親しくつきあいがあったロシア人の一人ということだ。ニコラス・バフチンがケンブリッジの教職に就いていたかは定かではない(友人という記述があるだけだから)。ニコラス・バフチンはおおよそ1894年生まれだからLWとは5~6歳年下ということになる。LWがロシア訪問を行ったのは1935年の9月。この時点で、ミハエル・バフチンはまだ流刑の刑期を終えていなかった。しかしながら、バフチンの「ドストエフスキー論」は1929年に公刊されているのだから、それを兄のニコラスを経由して知っていた可能性は十分ある。

   レイ・モンクの評伝では、さらに、ニコラスとLWが『論考』を一緒に読んでいたことが記されている(下巻510頁)。その際に、『論考』と『探求』は一冊にまとめて出版されるべきだという構想を思いついたとある(『探求』の序文にはこの記載がある。この構想をケンブリッジ大学出版局は承認したものの実際には実現しなかった)。

   レイ・モンクの評伝では、バフチン兄弟とLWの関わりは「接触があった」という指摘はあるものの、具体的には、ほとんど触れられていない。時期的に言えば、1935年は、ミハエル・バフチンの流刑の刑期明け(1936/9)の前年であり、LWが帰英後2年間程度はソビエトへの移住の希望を捨てきれずにいたことを考えると、ミハエルとのなんらかの接触を期待していたということはあり得ることである。というのも、ミハエル・バフチンはある意味で、ドストエフスキーの最大の理解者であったであろうから。LWは話をしたくて仕方がなかった。のではなかったか。これはもちろん私の推測でしかない。バフチンのドストエフスキー理解はLWのそれと非常に似通っていることは確実だと思える。LWには「カーニバル性」は薄いというか欠落している感は否めないとしてもである。見通しとして、バフチンとLWを並べて眺めてみることに何らかの意義はあるだろうと思われる。

   ニコラス・バフチンとの関係について、パスカル夫人の手記に一節がある。ウィトゲンシュタインとニコラス・バフチンは極めて仲が良く、ウィトゲンシュタインは真にニコラスが大好きであるように見えた。彼らは子供のような純真さ(childlike innocence)を共有しつつ大騒ぎし放題の生活をしていた。という記述がある。( Recollection of Wittgenstein P.14 2011/7/10 )


9.第三世代(2001/5/10)

  ウィトゲンシュタインの理解は、すでに第三世代に受け継がれているという。つまり、LWと同世代(ラッセル、フレーゲ、エンゲルマン、ポパー、等)を第一世代とするならば、第二世代はその弟子の世代(マルコム、アンスコム、ブースマ、リース、等)そしてその弟子(の著作)に学んだ次の世代が第三世代ということになる。第三世代は、いわば、一次的資料、二次的資料がそこそこ手にはいるようになった80年代後半以降に研究を行っている世代だといえるかもしれない。残念ながら、日本ではそうした世代の著作の多くは翻訳されていないし、その動向さえもあまりよく伝えられてはいない。クリプキ以後がどうなっているのかとんと見当もつかない。

   先日、amazon.com から届いた本の一冊、Cora Diamond の『The Realistic Spirit : Wittgenstein, Philosophy, and the Mind (Representation and Mind) 』はそういう世代の代表かもしれない(現状に疎いので、書評的な印象でしか話せない)。『New Wittgenstein (未入手)』という別著者の本もそうした系列に入るのだろう。「心の哲学 ( Philosophy of mind)」の周辺からLWを読み直してみるという試みに特徴があると思われる。どんな場合でも、哲学をジャーナリスティックに捉えるのはうまいやり方ではないから、こうした物言いはもちろん大した意味を持たない。しかし、共時的にLWの哲学を学んでいる他の人々がどのような視点や関心を持っているかを知ることは思考経済という観点からみれば有益だ。

   『The Realistic Spirit』のイントロダクションを読んだ程度の印象でしかないが少しだけコメントするならば、LWの「心の哲学」をフロイト的な心理学と対置させて、それは科学に入り込まずに純哲学的に「心」のあり方を検討する志向だけで構成されているのだと捉える場合、LWの哲学では通奏低音的に「形而上学」が意識されているのだから、扱うべきは「心(mind)」の問題というより「魂(spirit)」の問題と言い得るのではないか。しかしもちろんそう言ってはならない。しかしながらだからこそ、LWの「心の哲学」は事実記述を介して「魂」に接続させようとする試みなのではないか。だから「Realistic Spirit」と表現したのだということらしい(正しい?)。

   『Wittgenstein's Ladder』でMajorie Perloffは現代詩学に関わる多くの専門家達が「言葉」の核心を探求するにあたって実はLWを参照しているという指摘も、この点で類似性があるだろう。つまり、従来であれば、形而上的な表現を用いてズバリ言い表していた何かを、「現実」を示す試みを重ねることだけで自給自足させようとする立場、つまり、言語の限界の枠内で言い表し得る限りの表現を採用するにとどめる態度といっていいかもしれない。

   「魂」あるいは「心」の有り様をリアルに示す。という表現手法についていうと、ドストエフスキーの「カラマーゾフ」はその種の表現で構成された先駆的な作品だと見なすことができると私には思える。独立自在の「心」が作品の中で跋扈して、作者の思惑を越えて「語り出す」ような作品。バフチンが云う「ポリフォニイ」という概念は(独我論的に)世界を異にする「心」の持ち主が「小説」という単一の場の中で勝手気ままに自由に語り出すことを指すのだと思える。作者が設定した責務にも似た「役割」を果たすだけの登場人物としてでなく作者とは無関係に生まれ出た「心(魂)」を持つ作中人物として表現されてあること。もちろん作中人物は作者の創作人格である。ところが「言葉」を用いてその作中人物が話を始めると作者との親子関係の呪縛を断ち切る場合があり得る(?)のかもしれない。

   LWのいう「理解」とは「解説」でなくてその「別表現」なのだという意味で、LWの哲学は彼のドストエフスキー理解の「別表現」として記されている。と読むこともできる。心の有り様を哲学的に記すというLWの志向に現在のウィトゲンシュタイン研究家達が心惹かれているのであるとすれば、それは、ウィトゲンシュタインの意図を彼の思惑通りに受け取っているのだということができるかもしれない。

   ただ、残念ながら、新刊書の類であっても、そこにドストエフスキーとLWの関連性についての言及を探すことは困難である。伝記的資料には実に様々に見いだし得るにも関わらず。おそらく、英米の研究者達の文化的基盤とドストエフスキーとは距離があるからなのであろう。ロシアから見ればオーストリアよりイギリス・アメリカは遙かに遠いのかもしれない。
12.ポリフォニー(2001/5/16)

  ミハエル・バフチンが「ポリフォニー」という概念でドストエフスキーの作品論を展開しているということを知ったのはつい最近のことだけれど、ポリフォニー、あるいは形容詞としてのポリフォニックという概念が芸術的な表現として重要だとということはずいぶん前から考えていた。ポリフォニックという語は、「ポリフォニック・シンセサイザー」という語として最初に知った。それは確か1981年か1982年に九段の科学技術博物館で開かれていた、電子楽器展覧会で、メーカー名は忘れてしまったけれど、ドイツ製のポリフォニックシンセサイザーに手を触れたときに体感した言葉だ。確か100万円を超える高価な楽器だった。

   シンセサイザーについては、75年前後から709とか741といったオペアンプを用いて実際に実験回路をシンクロで波形をみながら手作りで組んでいたこともあって、アナログシンセサイザーの回路技術がどのような構成であるべきかはよく知っていた。ムーグ社のシンセサイザーに代表されるモノフォニック・シンセサイザーのキーボードはいわば梯子的に分圧抵抗を並べた(ラダー)抵抗を基本とした電圧分圧スイッチ(ボリュームスイッチ)のようなものであるはずであったから、和音を構成できる仕組みにはなっていないはずだった。だから、ポリフォニックシンセサイザーは驚異的な代物に思えた。すべてのキーボードスイッチを個別に認識しさらにそれぞれにVCO(Voltage Control Ocilator)が接続されているのだとしたら...。という具合だ。80年代初頭では、デジタルICもTTLが主流だったから、シンセサイザーのデジタル化は容易ならざる技術であったはずだ。当時、私はインテル社の半導体の販売代理店で8086などのテクニカルセールスを仕事としていたが、デジタルな楽器が世に出るにはまだまだ技術的には未成熟であると思っていた。

   シンセサイザーは音を音素の合成として扱う。という点で目新しい楽器であった。単音の合成でさえ、複雑な回路を組み合わさなければできなかった。それがポリフォニックに行うのだとしたら....。もちろん、当時でも、エレクトーンと呼ばれていた商品は存在していたし、電子ピアノとかハモンドオルガンといったどちらかといえば単色系の電子楽器は数多くあった。だから、まぁ時代の趨勢だったのだろう。

   70年代後半を通じて私はオーディオ店でアルバイトをしていた。当時の音楽の好みといえば、PinkFloyd一辺倒だった。だから、シンセサイザーには憧れがあった。PinkFloydはバンド演奏という観点から聞くならあまり面白くないかもしれないけれど、オーディオ的に音を分解して聞くという観点からいえば、とてつもなく面白いバンドであったと思う。彼らは曲作りというより音づくりに凝るバンドであった。だから、音のコラージュという継ぎ接ぎ的なサウンドだったから、曲とかメロディとかより、音そのものに注意を傾けざるをえなくなる。その意味では、同種の(いわゆるプログレ)バンドであるYesとかと比較すると、ハーモニクスはバラバラ。ニック・メイソンのドラムはいつも1/16音符程度遅れているし、ロジャー・ウォータースのベースは流行のチョッパーとは無縁の定テンポリズミングだし、お世辞にもピアニストとは呼べないリック・ライトのキーボードはまぁ、BGMを越えないし。ギルモアのギターは今でも好きだけれど、なんというかメロディラインを弾くことはほとんどないし。等々。これに、エフェクト音源(人の声とか目覚まし時計の音等々)が加味されていたから音的には多層復層的だけれど、音楽的にはバラバラという印象がある。

   81/82年頃にポリフォニックという言葉を知ったが、フロイドの音は「ポリフォニックシンセサイザー」という語の意味とは別のニュアンスでポリフォニックだと考えるようになった。コーラスやハーモニーを重視しない音楽というのもあるのだというニュアンスで(というか演奏家としての技術不足から、彼らには高度な和声的演奏はできないのだという悪口もけっこうなされたものだ)。シェーンベルク以後の現代音楽は和声を重視しない。ということとフロイドの音とは別段関係ないと思えるけれど、バラバラな音をどうにかつなぎ合わせて一つの音場を創造するという点でいえばPinkFloydは卓越したバンドであったと今でも思っている。つまり音表現としてのポリフォニックの範例を私はフロイドに見ていたということだ。

   その82年頃は、確か日本ではYMOが流行っていた。彼らを武道館へ聞きにいったこともある。『ライディーン』に代表される彼らの音楽は「秋葉原行進曲」と揶揄されるほど、当時の秋葉原の街中で響き渡っていた。そのYMOは上述の意味でははるかに音楽的なバンドだったと思う。「スネークマンショー」の系列は別としても。

   音楽を構成する伝統的な手法とは、メロディやコード進行が先にありそれにさらに和声的に多声合成することで音に厚みを付与するというやりかただと思える。これはいずれにせよ、モノフォニックであると言えるだろう。もちろん、古典音楽のすべてがこの形態で割り切れるわけではない。たとえば、ブラームスの交響曲1番の冒頭の52発の太鼓連打を最初に聞いたときはけっこう衝撃を受けたものだ。フロイドにも『斧に気をつけろユージン』という曲がある。こちらは最初から最後までドラムが定速でリズムを刻み、その間、各パートが勝手に音を出しまくる。そして、ちょうど曲の正午にカミュ的な「叫び」が入る。

   ちなみに、その1番を演奏会で聞いたのは中三の時だ。ちょうどそのころ学校の音楽の時間で「自由演奏」という課題があり、私は仲間と、『ブラ1+ユージン』と同じような構成、つまり、最初から太鼓が一定のリズムを刻んで、その間皆適当に音を出して、32小節だったか48小節の最後に全員がフォルテシモの音を出して終わる。という演奏を試みたことがあるけれど(特に練習しなくて済むという経済性を重視していたこともあるから)受けなかった(^^;

   何をもって「ポリフォニック」と形容できるのか。その基準を定かにすることは難しいと思える。「カラマーゾフ」では、ドミトリー、イワン、アリョーシャの三兄弟+スメルジャコフにはほとんど共通性はないけれど、唯一、父親の存在を介して「兄弟」であり得ている。この意味で「カラマーゾフ」であるということが、かろうじて「和声」の絆となっているのだとみることができるかもしれない。しかしその「和声」は古典的だとはいえないだろう。

   ウィトゲンシュタイン的独我論的人格もまた、あえていうならモノフォニックである。だけれど、他の独我論的人格と「言葉」で関係せざるを得ない。そこでなされる「言語ゲーム」は「和声」の一形態とみることはできないか。言語ゲームを通して「ポリフォニー」に転じるとは考えられないか。もちろん、こうした見方は独我を軸にしてみれば一種の超越論(神の視点による)であるから単なる観念でしかない。

   極端に徹底した「独我論的認識」の中では神はおろか他者さえも顕れない。他者は「私の認識事」という私の事実認識の中でしか意味を持ち得ないのだから。「今、あなたに会えてよかった、嬉しくて嬉しくてことばにできない。」と歌ったのは小田一正(オフコース)だけれど、単音的(モノフォニック:独我論的)存在はいかにして他声、そして「和声(ハーモニー)」を了解するのか。結局、それは「ポリフォニー」であるということはどういうことか。ということを教育的に学ぶことがなければ了解できないのではないか。とすれば、それは哲学的認識の外でしか学べないのではないか。ところが、システマチックな教育は多くの場合モノフォニックな単声的和声(ハーモニー:協調)を強調するのである。







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