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Wittgenstein と宗教

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哲学者の顔

ここで書き連ねられている一連の文章は、大昔、学生だった頃に、ウィトゲンシュタインを読み始め、その当時、感じていた印象をとりあえずまとめてみようというメモ書きで、それ以上でも以下でもありません。

宗教家の顔


1. 「論考」に掲げられた鍵(98.1.23)(98.5.10.改版)

 最初に「論考」を読んだとき、論理学の本でありながら随分と神学的な言い切りがあるな。という印象を受けました。その後何時だったか、論考の大見出しを拾ってみると、大見出しの節句それ自体は大見出しに本当にふさわしいのか。章と節に分節されたいわゆる大著の類に比して、それらの節句は章頭を飾るには役不足な感じを受け不思議さを覚えたものです。むしろ7つの節句には連続性が見て取れる。しかしなお、それらの7つの節句は相互に注釈し合う関係にはない。そこでふと思い浮かんだのが旧約の創世記。実はこの「論考」の番号付けは気がつけばとても分かり易いウィトゲンシュタインの暗号の解読キーなのではないか。今ではそう考えるに到っています。

【論考】
1. 世界は成立していることがらの全体である。
2. 与えられたことがら、すなわち事実とは、いくつかの事態の成立にほかならぬ。
3. 事実の論理的映像が思考である。
4. 思考とは意味をもつ命題のことである。
5. 命題は、要素命題の真理関数である。
6. 真理関数の一般的形式 .....これは命題の一般的形式である。
7. 語りえぬものについては、沈黙しなければならない。

【旧約聖書:創世記】
1. 初めに、神は天地を創造された.....
2. 神は言われた「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」....
3. 神は言われた「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いたところが現れよ。」....
4. 神は言われた「天の大空に光るものがあって、昼と夜を分け、季節の印、日や
  年のしるしとなれ。天の大空に光るものがあって、地を照らせ。」....
5. 神は言われた「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」
 ....「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」
6. 神は言われた「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣を
それぞれに産み出せ。」....
7. 天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に
神はご自分の仕事を離れ、安息なさった。....

こう対比対照してみると、「論考」の骨格はまさしく、旧約聖書の創世記の天地創造の「神話」のアナロジーとして組み立てられていると私には読めるのです。概念的に抽象化してまとめると

1. 全体としての「世界」定義
2. 世界を構成する単位要素
3. 世界が構成される場の定義
4. 意味成立の根源
5. 要素相互の関係と連続の定義
6. 拡張される連続・関係性、演繹と外延への拡張。自我(人間)。
7. 完了

この相似性の特徴付けには問題がありますが、私の語彙力に問題があるので仕方ありません。(;_;)。おそらく、「論考」の突端は7で、これが着想の最初にあって、1が次、そして2~6は聖書の解釈を論理学的に反映させた後付けなのではないか。そんな過程で書かれたのじゃないかと想像してます。大修館版の全集には入っていませんが、「論考」には2種類あるといわれています。初期版(Proto-Logicophilosophicus)と決定稿とでは内容的には95%以上が同一で、修正個所は、細かな語彙の入れ替えと文章の依存関係の並べ替えが行われた程度。だそうです。ただ、この入れ替えがどの程度なされたものであるのか。入れ替えの意図がどこにあったのか。想像するに、このアナロジーの補強がその並べ替えの動機になっていたのではないか。と。

 ウィトゲンシュタインの独我論は5のコメント、神秘主義的な節句が頻出するのは6のコメントに集中しています。創世記で生物が創造されるのが5日目。人間が創り出されるのは6日目のことです。この対照。天地創造の神話は、天体物理学的な「宇宙創世」の「神話」として受け取られるのが普通ですが、独我論という観点から言えば、「わたし自身」という内的宇宙の「創世記」として読み得るのではないか。この意味で、「論考」はウィトゲンシュタインの「創世記」に対する哲学的な解釈だとも言えるのです。神学に踏み込まない哲学。その一線を論理学の内側に踏みとどまって書かれたのが「論考」なのだ。という見方ができるのです。

 ユダヤ思想での「安息日=7」へのこだわりは、現在でも強固な民族的なアイデンティティを示すものとされていますが、その7日目の意味は「創世記」における7日目。という意味だけでなく、モーゼに率いられた出エジプトを完了した日。という意味も含まれている。のだそうです。つまりは隷属からの解放記念日。という意味もある。ウィトゲンシュタインの「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」という有名な節句への番号付けが7であり、さらにこの句だけには7.1....等といったコメントが全くないことを考えると、この節句には、節句が言う意味以上の旧約的なシンボリックな意味が付与されていると解することに不自然さは全くないと思えます。

 「論考」の文体に比して、「探求」または後期のウィトゲンシュタインの文体では、「○○という場合を考えて見よ、ここでは、○○だが、それは実は◎◎なのだ」という文体が頻繁に見られます。文体的に俯瞰すれば、これは、新約の福音書のイエスの語りにとてもよく似ている。

マタイ伝13章13節
  わたしが彼らに「たとえ」で話すのは,彼らは見てはいるが見ず,聞いてはいるが聞かず,また,悟ることもしないからです。

 アナロジーの翼で飛躍して言えば、「旧約」=「論考」←→「新約」=「探求」という類比が出来るかもしれません。

(法政大学出版局版「論理哲学論考」所収の「哲学探求」の『原著者による序文』より(217~218))
「そのとき、【突然】、旧著の思想と新しい思想を一緒にして公刊すべきではないか、新しい思想は、わたくしの古い思想との対比によってのみ、またその背景の下でのみ、その正当な照明がうけられるのではないか、と思ったのである。」

 いずれにせよ、いわゆる「前期」から「後期」への転換が問題にされるウィトゲンシュタインの思想的変遷ですが、僕はむしろ何が持ち越され何が批判されていたのか。特に連続している部分が何であるのかが問題のような気がしています。
 彼自身は哲学的な著作上では自らの宗教観を語ることはほとんどありませんでした。しかしその哲学的営為の背後で実は旧約世界と新約世界の連続性と断絶点とをウィトゲンシュタインは彼なりにバックボーンとして考え続けていた。そんな感じを受けるわけです。でもこの領域は人それぞれ内面の問題として抱えていればいいことです。自らの理論として公開し例えば聖書聖典の正当性を論証してみせる必要は...ないのでしょう。



2.ウィトゲンシュタインとヘブライズム(探求172/173について)(98.1.27)(98.5.8改版)

 ウィトゲンシュタインの論考の「神秘的」な記述のいくつかはいわゆるギリシア的な言葉(ロゴス)とは質の違うヘブライ=ユダヤ的な言葉として解した方が理解され易いのではないかという考えを長きにわたって頭の片隅に抱いていました。いわゆるギリシア的な思想による世界観というのはコスモス、つまり「真理」は形而上世界に整然といわばスタティック(静的)に配置されてあるのだ。それを人は志向しその思索営為が「哲学」である。というスタンスが基本です。これに対照しつつ、ヘブライ的な世界観の違いを言えば、まず真理なるものは神の手の中にある。基本的にそれが整然としているかどうかも不可知であるが、物、事象、預言、奇跡、啓示などを通してそれはにじみ出てきたり突如として顕現してきたりする。
 で、ウィトゲンシュタインの場合、この2つの世界観がごっちゃになっている感じを僕は受けるわけです。しかもウィトゲンシュタインが見せるある面が特異に思えることがあるとすれば、それは「顕現する」という語で表現し得るヘブライ的な視点で語られる部分が露出した場合だと思えます。

 6.432 世界がいかにあるか、ということは、より高次の存在にとっては、全くどうでもよいことだ。神は世界の中には顕われない。
 6.522 いい表せぬものが存在することは確かである。それはおのずと現われ出る。それは神秘である。

この記述は一例に過ぎませんけど、こういう記述がたくさんありますね。あと

 6.4 すべての命題は等価値である。

 というような記述で、価値命題を考慮外としてしまうのもウィトゲンシュタインの特異な点だと思います。これは科学の「没価値性」原則と結果として同じになるのだけど、価値排除の根拠が全然違うわけです。ウィトゲンシュタインの叙述における「没価値性」は後年、特に社会科学系の人々には大いに役立ち何かにつけて頻繁に引用されるようになる。でも、それは多分に曲解されている面があるように思われます。この辺が特異なのかどうか、ヘブライ的なのではないか。


6.5 言い表す術のない答えに対しては、また問いをいい表す術を知らぬ。「これが謎だ」といえるものは存在しない。そもそも、ある問いが立てられるものなら、それに答えを与えることもまた可能である。

という具合で、少なくともウィトゲンシュタインは「問い」には「答え」が存在しているはずだと考えているわけです。「探求」で立てられる「問い」は必ずしもFrequentなものではないけれど、結果として「探求」はいわゆるFAQのような構成が取られているわけです。この様な種類の「問い」には「答え」があるわけですから、その答えを知る者に対してはそもそも「問い」を立てる必要がないはずで、この考えが「論考」では「梯子」の比喩に連なるわけですけど、「探求」ではあえて「問い」があり、「答え」が示される。では、それは何故なのか。

 6.4321 事実はすべて問題を課するのみで、解答を与えぬ。

 という記述が「論考」にあります。#173の冒頭のある主張に対する扱いはまさにこの点を突いていると読めます。すなわち、目前の事実に捕らわれるとその事実によって事の本質が(ここでは「導かれる」という事例相互の共通点)隠されてしまう、あるいは見え難くなってしまうのだと、ウィトゲンシュタインは考えるわけです。

 しかし、ウィトゲンシュタインの「答え」が本当に「答え」になっているのか?
 モデル構築を含む理論や高度の論理性に裏打ちされた堅固な答えが用意されているのでしょうか? 実は彼の問いかけはその種の体系や理論というような形式を要請する「問い」ではなくて、思索や認識にまつわる狭窄物を排除するような思考を要請する「問い」であると思えるわけです。それは#172/173に限ったわけではありません。

 このような「問い」=「答え」を想うと、例えば、マタイ福音書の有名な一説(6-25)。

 「だから、言っておく、自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物より大切であり、体は衣服より大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養って下さる。....」

 いわゆる「野の花、空の鳥」というイエスの訓戒です。世俗的な雑念(煩悩?)が人を悩ませるけれどもそれを取り除け。ということですが、ウィトゲンシュタインのFAQとしての「論考」もいわば哲学にまつわるそうした雑念を排除することを要請するものであるという点で「似て」います。まぁ、それ故に「禅」とも似ているのでしょうが、そこまで言うと少し言い過ぎなのじゃないかな。
 ウィトゲンシュタインの宗教性は、宗教に対しては一切語らない、という態度で一貫していると思えるわけですが、しかし、文体にはその宗教性が如実に現れている。という感想を僕は持たざるを得ません。ウィトゲンシュタインの「用語法」分析は単なるシンタクス・レベルに留まるものではないからです。凝視すれば「見える」はず。何かが「顕われ」てくるはず。こういう論調がそこかしこに露出してますし(この#173の結語もそう)、そこで見えたものをなんらかの文法として体系記述はまずしていないわけです。

 この「顕われ」てくるはず。という部分が、とてもヘブライ的だと思えるわけで、「探求」を読む際にはいつもひっかかるところなのですね。彼の宗派はローマカトリックですが、ウィトゲンシュタインが「ユダヤ人である」ことに関しては、次のような独白が伝えられています。


人類の知的遺産73 ウィトゲンシュタイン
P.7
 ユダヤ人の「天才」には聖人しかいない。最大のユダヤ人思想家といえどもタレントにすぎない。(たとえば私のように)。わたしがそもそも自己の思想に際して模造しかしていないと自ら考えるなら、そこに一片の真理があるように思う。思うに、わたしが何らかの思想運動を企みだしたことなど一度もなく、それはいつも誰か他の人から与えられていた。........私が企み出すのは新しい模造なのだ。」( )

 これは1931年(42歳)、ケンブリッジ大再入学の翌々年の記述。いわゆるウィーン学団との離別後にあたるのです。ウィトゲンシュタインとユダヤ問題というのは世評ではあまり論じられていない、けれども、同年代の多くのユダヤ人がナチズムによるホロコーストで命を落としているわけです。ウィトゲンシュタインが小学校教師に就いていたころからこのケンブリッジ再入学に到る時代は、ナチス党の興盛期で、1930年の総選挙で103議席、1933年の選挙では288議席を獲得しヒトラーは首相になっています。映画「キャバレー」で登場する哲学青年はケンブリッジの学生(院生?)でホモセクシュアルであるなど、あの映画を見る度ごとにまさに、同時代(世代は若干異なるけれども)で、ウィトゲンシュタインがモデルかなとか、なわけはない?¨思うのですがこれは不明。



3. ウィトゲンシュタインの悩み(98.2.17)

今回の「お題」は「悩み」

『なぁ、何を悩んでいるんだ?』
『.........』
『なぁ、一体何を悩んでいるんだ?』
『.........』
『なぁ、何を悩んでいるんだ、言ったらどうだ?』
『教えるものか!』

 この台詞回しは、実はあるTV番組(The Prisoner)のシチュエーションにあったもので、私の創作ではありません。でも、言い得て妙だという感じがあります。ウィトゲンシュタインの悩み事。それは何だったのか。imidasなどという「常識本」にさえも堂々と「ウィトゲンシュタインがホモセクシュアルであったことは周知の事実である」などと書いてあるご時世なので、それが悩みの種だったのだろう。とついつい引きずられてしまう。実はこの「ホモセクシュアル」なウィトゲンシュタインと「宗教的」なウィトゲンシュタインが存在する。ウィリアム・w・バートリーの「ウィトゲンシュタインと同性愛(未来社刊)」がもう片方の側からのテキストになっています。この書物の中で、バートリーは自説への反論者としてドゥルーリーの主張を次のように引用しています。

-------------------------
「潜在的なものであれ、活動的なものであれ、同性愛の問題に警告を発するのがわたくしの仕事である」と断った上で「バートリーはウィトゲンシュタインがかつて『同性愛的行動によって苦しめられていた』と想定している点で誤っている.....いかなるかたちであれ、官能は彼の禁欲的人格にとっては全く疎遠なものであった。
------------------------
マルカムの本では、このドゥルーリーの証言が中心的な役割を果たしているという点で、書かれた時期も含めて考慮すれば、マルカムが「ウィトゲンシュタインと宗教」という本を書いた一つの目的に、ある意味で「官能」の対極に位置する「宗教」とウィトゲンシュタインとを密接な関係で論じることで否定的に対抗する意図、ドゥルーリーの主張するところをマルカムなりに補強し支持することをめざしたものであるように見えます。

ウィトゲンシュタインがケンブリッジに戻ってきたのは1929年。40歳の時でした。つまり、探求も含めて、後期と呼ばれる仕事のほとんどがこの40台以降に為されているということです。遅咲きといえば、言えるのかも知れない。少なくとも、哲学を再開した後のウィトゲンシュタインは「ホモセクシュアル」な人物ではなかった。ということだけは言えるのではないか。そう思えるわけです。彼の30台は小学校教師が6年間と残りがウィーン学団とのお付きあい+庭師+建築家の時代でした。20台といえば、学生+軍人+「論考」の著述。等など。

 一般に「前期」「後期」の区分けがされるけれども、その間には約10年間のブランクがあり、その間のウィトゲンシュタインは「哲学者」ではなく、「悩み多き市井の人」であったわけで、この中間期ともいえる間はやはり長いと思えるし、普通の学者なら最も多産な時期にもかかわらず、大きく落ち込んでいた時期であったわけで、この落ち込みからの「復活」こそが彼の希求であったと考えると、マルカムの描く「宗教者」としてのウィトゲンシュタイン像がピッタリとしてくるのです。つまり、後期ウィトゲンシュタインというのは「再生」の物語の一つなのだという、そういう視点です。



4. ヨハネ伝とウィトゲンシュタイン(98.2.23)

またまた外的な視点から。ヨハネ伝とウィトゲンシュタインというテーマで。

マルカムの「ウィトゲンシュタインと宗教」の20頁。

『二人(ドゥルーリーとウィトゲンシュタイン)が四福音書について比較していたとき、ウィトゲンシュタインは、彼が好きなのは「マタイによる福音書」である、と言った。そして彼は、共観福音書に比べて第四福音書を理解することは困難であると思う、と付け加えた。しかし彼は、さらにこう言った、「もし君が、神が人間になった、という奇跡を受け入れることが出来るならば、そのような困難は全くなくなる。なぜならその時は、<神が人間になった>といった出来事の記録はどんな形をとるべきかについて、私はいうことができないから』

マタイ伝は「山上の垂訓」と呼ばれるイエスの説法が詳しく語られている福音書であり、共観福音書はそのマタイ伝の他にマルコ伝、ルカ伝の三書。第四福音書とはヨハネ伝のこと。ヨハネ伝の冒頭には前にも書いたように

> 初めに言(ことば)があった。
> 言は神と共にあった。
> 言は神であった。
> この言は、初めに神と共にあった。
> 万物は言によって成った。
> 成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
> 言の内に命があった。
> 命は人間を照らす光であった。
> 光は暗闇の中で輝いている。
> 暗闇は光を理解しなかった。

とあります。このヨハネ伝のいう「ことば」を「言語ゲーム」と読み換えてみる。ということは可能であるように思えます。ただ、ヨハネ伝のいう「ことば」と「言語ゲーム」とは等価ではない。これも確かなことのように思えます。これが等価になる場合とはイエスの行った言語ゲーム、あるいは旧約の預言者達の言語ゲームがそれであって、ふつうの人間の為し得る言語ゲームは「闇」に満ちている。そう考えていたのではないか。

 このように書くこと自体、あまり大した意味を持たないように思えます。というのも、このような視点で発語してしまうこと自体はたぶん、ウィトゲンシュタインの「行儀作法」に反する部分に入り込んでいるから。ウィトゲンシュタインの哲学をある意味で、単なる「基督教文学」というカテゴリにおとしめることになるから。外的な視点からすれば、実はそう理解する方が容易だと思えるのだけれど、つまり、トルストイやドストエフスキーやキルケゴールの列に並ぶ基督教文学として彼の哲学を文学的に理解する。という外枠は、たぶん、宗教を括弧でくくれてしまう人にとっては、それなりの視座を提供することになると思えます。

 後期のウィトゲンシュタインの言語ゲームとルールという概念(?)の扱いは極めて意識的に平坦な扱い、つまりそれをさらに細かく内分するような概念の導入をほとんど忌避していたも同然であるような議論の方法になぜ固執していたのか? この部分のこだわりが、他の哲学な人々との断層をなしていると思われます。

『ほかの人がどんどん歩いていくところで、わたしは立ちどまったままである。(反哲学的断章175頁)』

この「立ち止まりの思想」とも言うべき立場にウィトゲンシュタインを立たせ放しにさせたのは何なのか? なぜ?

 前期・後期を通じて、世界はあるがまま、言葉で不必要にいじってはいけない。というようなスタンスを感じます。言い方を変えると、「言葉は恣意的に用いられてはならない。」しかし、恣意という語を彼はほとんど使っていない。論理学者は詩人にはなれない。ということなのかもしれません。いずれにせよ、「探求」は「立ち止まり」の世界なので、その深みに入る前に、なぜ「立ち止まる」のかということを考える視点だけは失わないようにしないと、大事なものを見失ってしまいそうな気がするわけです。



5. グノーシス主義とウィトゲンシュタイン(98.2.25)

またまた外的な視点から。グノーシス主義とウィトゲンシュタインというテーマで。
>
>マルカムの「ウィトゲンシュタインと宗教」の20頁。
>
>『二人(ドゥルーリーとウィトゲンシュタイン)が四福音書について比較していた
>とき、ウィトゲンシュタインは、彼が好きなのは「マタイによる福音書」である、
>と言った。そして彼は、共観福音書に比べて第四福音書を理解することは困難であ
>ると思う、と付け加えた。しかし彼は、さらにこう言った、「もし君が、神が人間
>になった、という奇跡を受け入れることが出来るならば、そのような困難は全くな
>くなる。なぜならその時は、<神が人間になった>といった出来事の記録はどんな
>形をとるべきかについて、私はいうことができないから』

久々に荒井献さんの『原始キリスト教とグノーシス主義』という本を読み返してみました。324頁。

-------------------
われわれには、もしもグノーシス主義の救済者を強いてトートロジーを用いて特徴づけようとするならば、ライツェンシュタインやブルトマンのように「救済された救済者」とするよりもむしろアウグスティヌスに従って「救済されるべき救済者」とした方が、グノーシス神話の根本思想に近いように思われる。何故なら、グノーシス神話は、至高者と人間の実体的同一性の認識をその究極の目的とするが、それは絶対的二元論の枠内で展開されているからである。つまり、救済の終結(「救済された」!)は神話の解消を意味する。人間本来の自己が、至高者または救済者と同一である限りにおいて、「救済者」と呼ばれうるとするならば、それは神話の内部にある限り「救済されるべき者」に重点が置かれるのが当然であって、「救済された者」はエピローグに過ぎないであろう。
(中略)
しかし、グノーシス神話そのものは絶対的二元論を前提しているのであり、そのために人間の本来の自己が分裂して、この「自己」の属性化をその特色とする。人間は究極的において救済者と一つであるが、前者は後者によって呼び醒され、救済される対象である限り、両者は(グノーシス)神話において一つではない。ここでも認識による救済は決断を含むのである。グノーシスとは救済の認識であって、「救済者の認識ではない」のである。
-------------------
このグノーシス主義とヨハネ書とはその成立時期の点で密接近隣していると考えられており、ヨハネ書を「理解」することはグノーシス主義の理解に通じるところがある。しかし、グノーシス主義はローマカトリックからすれば異端なのであって....。ウィトゲンシュタインのキリスト教観は「必ずしも正統的なものではなかった」といわれることがあるが(論拠失念)、それはたぶんこの部分がキーになっているのではないか。そう思います。



6. 情熱を取り囲む寺院(98.4.1)

 ここ1週間ほど、仕事先への行き帰り道で、ウィットゲンシュタインの手稿の翻訳「反哲学的断章」を読み返していました。この本は、G.H.フォン.ライトという遺稿管理者の手によるもので、1914年から1951年までのウィトゲンシュタインの手記の断片が集められたものです。

P14. 1929年
「わたしの理想は、ある種の冷たさである。情熱に口をはさむことなく、情熱をとりかこむ寺院。」

断片なので、文脈は不明だけれど、ここで言う「情熱」はキルケゴール的な「信仰とは情熱である」というある種の核心(確信)を引きずっているのは明らかだと思えます。しかし、その「情熱」は冷ややかな回廊で取り囲まれて外からは見えない。寺院は目に見えるという意味で、「情熱」の在処を示す「指さし」である。外見から見ればそれは単なる「建物」であるに過ぎないかのようである。
 
 まぁ、寺院といっても、門前市をなす。という風情のうるさい寺院も中にはあるようで、この意味ではウィットゲンシュタインは、もはや代表格になりさがっているのかもしれません。(^^;



7. 上からの光 -1- (98.4.3)

「反哲学的断章」P154から引用。

1947年
『わたしのやっていることは、そもそも努力のしがいのあることだろうか。上からの光をうけとるときに限り、努力のしがいはある。では、努力のしがいがあるとするなら、どうしてわたしは、自分の仕事の成果が盗まれはしないかと、心配するのだろう。もしも、わたしの書くものが本当に価値のあるものであるなら、どうして、その価値のあるものが盗まれるというのだろう。上からの光がなければ、私は器用な人間にすぎないのだ。』

ヨハネ伝19章8節から
『ピラトがこの言葉を聞いたとき、ますますおそれ、もう一度官邸にはいってイエスに言った、「あなたは、もともと、どこからきたのか」。しかし、イエスはなんの答えもなさらなかった。そこでピラトは言った、「何も答えないのか。わたしには、あなたを許す権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのか」。イエスは答えられた、「あなたは、上から賜るのでなければ、私に対してなんの権威もない。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪は、もっと大きい」。』

 キリスト教的な「正しさ」の源泉はいわば「上」にある。現世的な「権威」は人間のものであるが、必ずしも「上から」のものではない。

やはりヨハネ伝冒頭より再度引用。

> 初めに言(ことば)があった。
> 言は神と共にあった。
> 言は神であった。
> この言は、初めに神と共にあった。
> 万物は言によって成った。
> 成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
> 言の内に命があった。
> 命は人間を照らす光であった。
> 光は暗闇の中で輝いている。
> 暗闇は光を理解しなかった。

ここでの光はことばが発する。ことばに内在する光。ギリシア的でもあり、ゾロアスター教的な異教の香りもする。

 ウィトゲンシュタインが「上からの光」という場合、それは彼の哲学的徒労の「正しさ」を担保する何かであるに違いない。仕事に対する普遍的な価値を内在化させるインスピレーションであるのかもしれない。「上からの光」に照らされているということを彼は感じたのであろうか。

 「上からの光」得て観照するがごとく一文をものにすること。これはウィトゲンシュタインの「希求」であったに違いない。それと同時に、目に触れる他者の「一文」や「一曲」が「上からの光」に耐え得るのか。これまた彼のある種の評価基準になっていたように思われる。

 「上からの光」という語はとても難解であるように思われる。その光は人知の及ぶところには射さないのかもしれないし、ある境地に達し得ればその光の一条を感ずることができるものであるのかもしれない。

 ことばの中には比喩的に言えば黄金が隠されており、それは「上からの光」によって輝く。のだとすれば、そのような言葉を紬出すことは、古来、錬金術師の目指した「鉛を黄金に変容させる努力」に近くなる。しかし、おそらく、そのような「精錬主義」ではない。というのがウィトゲンシュタインの考えるところなのであろう。

 「上からの光がなければ、わたしは器用な人間にすぎないのだ」。ここで言う器用な人間とは、「言語哲学者」という程の意味であろう。そしてウィトゲンシュタインはまさにそのようにして読まれている場合がほとんどでもある。



8. 上からの光 -2- (98.4.12)

「反哲学的断章」P154から再引用。
>
>1947年
>『わたしのやっていることは、そもそも努力のしがいのあることだろうか。上から
>の光をうけとるときに限り、努力のしがいはある。では、努力のしがいがあるとす
>るなら、どうしてわたしは、自分の仕事の成果が盗まれはしないかと、心配するの
>だろう。もしも、わたしの書くものが本当に価値のあるものであるなら、どうして
>、その価値のあるものが盗まれるというのだろう。上からの光がなければ、私は器
>用な人間にすぎないのだ。』
>
>ヨハネ伝19章8節から
>『ピラトがこの言葉を聞いたとき、ますますおそれ、もう一度官邸にはいってイエ
>スに言った、「あなたは、もともと、どこからきたのか」。しかし、イエスはなん
>の答えもなさらなかった。そこでピラトは言った、「何も答えないのか。わたしに
>は、あなたを許す権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないの
>か」。イエスは答えられた、「あなたは、上から賜るのでなければ、私に対してな
>んの権威もない。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪は、もっと大きい」
>。』

 今回問題とすべきは、「権威」。

 「権威」という概念をどのような意味の広がりとして理解すればよいのか。その俯瞰を得るのは難しい。少なくとも「権威」は、

 ・「権威」を掲げる側の「正当(正統)性」
 ・「権威」を受容する側の「承認(妥当性)」
 ・「権威」が請け負う判断範囲

 少なくとも上記の3つの問題性が「権威」の概念解明の課題になると思われる。「権威」は蛇のごとく我々の言語的行為にまつわりつく。たかだか一文節の「引用」の中にさえ「権威」は他人の顔をして紛れ溶け込んで来るのである。否、たかだか日常語の語用の中にさえ「権威」のメカニズムは溶け込んでいると言うことさえ可能である。ということには注意が払われてしかるべきだろう。

 「権威」が果たす主たる機能は「正しさの源泉」としての基準を構成することである。これは基準の設定側に問題が限定されるわけではない。それを基準として受容する者がいなければ「権威」は何一つとして成立しないであろうから。

 ウィトゲンシュタインが承認する「正しさの源泉」は先の引用にあるように「上からの光」だと言える。この「上からの光」とはメタファ(暗喩)というより、「象徴語」である。「光」を「神の正しき道」の象徴語として用いる語法はヘレニズム的影響の故だと言われているが、旧約の聖典でも「ヨブ記」以降頻繁に見られる用法なので、それは必ずしも非ヘブライ的な語法だということはできない。しかし、「上からの光」とは「語り得ぬ事柄」に属する形而上学的な何かであろう。もちろん、先の引用は非公開な手稿にある一文であるからその是非が云々されることがらではない。しかし、それ故に考慮されるだけの価値はある。

 ヨハネ伝で示されるイエスは、ローマ総督府の主管であるピラトに対して、彼の政治的な権威を一切認めていない。ここに一つの「政治(犯)」の典型的な態度が示される。が、もし仮にピラトの権威が「上からの賜り」であるならそれはイエスに対しても権威を持つことをイエスは認めてもいる。実は結果としてイエスはピラトの政治的権威に「形」としては従い「磔刑」となるわけなのだが....。

 「上からの光」「上からの賜り」という語で示される「権威」への態度に共通していると考えられるものがあるとすれば、それは、「間接的に行使される権威」に対する「拒絶」である。実は「権威」をややこしくしている属性に「譲渡性・継承性」がある。「権威の譲渡性・継承性」とは、「権利の相続」に類似した「相続・譲渡・転与・贈与」が可能な何かとして「権威」が存立し得る。ということである。世界の歴史上で見られる「王権の継続性」から「暴力団組長の跡目相続」まで、「権威」はその子孫あるいは弟子が「受け継ぐ」ことができる。これは、「権力者の政治的な思惑」によることが多いが、そのような「権威」を必要とする「受容者側」の問題、つまり、「権威者の『他界』による新権威者の不在」に困惑を覚える ??うな「被権威者」としての大衆が存在する。という視点が重要だと思われる。しかし、「相続された権威」を背景に何事かの基準を「新王」は提供し続けることができるのであろうか。一例としては「豊臣秀頼」。神の権威はただ神にのみ存す。という意味で「宗教的権威」の間接性を否定する立場は理解できるものである。

 「正統的キリスト教」において、特に、ローマ・カトリックのローマ法王に付与されている権威は、原始キリスト教団においてイエスの指名による後継者としてのペテロの権威を代々受け継いだ者として根拠づけられた権威であり、そのようにして一般に受容されている。また、そこでは「イエス=キリスト」は「人と神との仲介者」としての役割を負うことになっている。がしかし、「正統」と「異端」の境界線が奈辺にあるのか。という問題はひとまずおくとして、それにもかかわらず、ウィトゲンシュタインは「ローマカトリック」の信奉者としてサインアップしているのである。また、彼の回りには、アンスコムを含め、「ローマカトリック」を信じる者が多い。もちろん、ウィトゲンシュタインはいわゆる「普通の信者」ではあ ??得なかった。社会制度としての「教会」に対しては、おそらくキルケゴールがそうであったように、彼もまた極めて批判的であった。にも関わらず「カトリック(正統教会)」なのである。この「ねじれ」は、私見によれば、「権威」受容に対しての「間接性」を廃する態度に起因するのだと思われる。

 ウィトゲンシュタインは終生、「ことば」を問題にしたが、その「ことば」とは発語されたとたんに理解され得るような言語行為としての「ことば」であって、言葉によって記述されたテキストの理解という面に関しては極めて淡泊であった。概して人の書いた文章には興味を抱くことが少なかった。ここにも先に述べたような「ねじれ」が見て取れる。



9. 上からの光 -3- (98.4.15)

>「反哲学的断章」P154から再々引用。
>
>1947年
>『わたしのやっていることは、そもそも努力のしがいのあることだろうか。上から
>の光をうけとるときに限り、努力のしがいはある。では、努力のしがいがあるとす
>るなら、どうしてわたしは、自分の仕事の成果が盗まれはしないかと、心配するの
>だろう。もしも、わたしの書くものが本当に価値のあるものであるなら、どうして
>、その価値のあるものが盗まれるというのだろう。上からの光がなければ、私は器
>用な人間にすぎないのだ。』

 同じ文章を何度も引用するのは能のない事と思えますが、この文章にはとてもひっかかりを感じるので、再々考するだけの価値があるように思われます。

 この文章は、1947年。つまりは二次大戦直後、彼の死去する4年前に書かれている。という意味ではおおよその仕事のたどり着いたところで書かれているわけです。自身の仕事全体の意義を自らの独創性に帰するのではなく、「上からの光」に照射されている限りにおいて私的な「著作」であることを超えた部分に到っているのではないか。という安堵感さえ見て取ることができます。仮に彼の著作が自身が嫌う「哲学雑誌的な評論の餌食」になることはない。そういうレベルまで達したのではないか。というような自信すら感じとることができます。

 ウィトゲンシュタイン自身はとても宗教的な人物であったけれど、哲学的な著述そのものには宗教的な思い入れの片鱗さえ露出することがほとんどありません。しかし、それは「意図的」なのであって、実はある種、宗教的な観点から眺めた場合、彼の著述全体がぴったりとはまりこむような全体。というのが存在する。少なくともウィトゲンシュタインにおいて、彼自身がその全体であったことは間違いないことだと思えます。

 しかし、この「上からの光」を感じとることができる。「上からの光」の照射を意識する。という点は、例えば「論考」の「語り得ぬ事には沈黙すべし」というウィットゲンシュタインの基本テーゼをかなり逸脱している感を免れ得ません。もちろん、手記は手記であって、著作として発表すべき内容ではないのですから、この点は差し引かなければならない。しかし、上記の発言が形而上学的な領域に踏み込んでいる。というだけでなく、ある種「絶対的正しさの認識」という認識。または、私(ウィトゲンシュタイン)は「上からの賜り物」としての「正しきことば」を著しているのだ。という自覚が可能だとした場合、そうのような認識はある観点から見れば、「言い過ぎ」だと断ずることができるのではないか。

>マルカムの「ウィトゲンシュタインと宗教」の20頁。
>
>『二人(ドゥルーリーとウィトゲンシュタイン)が四福音書について比較していた
>とき、ウィトゲンシュタインは、彼が好きなのは「マタイによる福音書」である、
>と言った。そして彼は、共観福音書に比べて第四福音書を理解することは困難であ
>ると思う、と付け加えた。しかし彼は、さらにこう言った、「もし君が、神が人間
>になった、という奇跡を受け入れることが出来るならば、そのような困難は全くな
>くなる。なぜならその時は、<神が人間になった>といった出来事の記録はどんな
>形をとるべきかについて、私はいうことができないから』

 奇跡として「神が人間となった」ということを受け入れることができる。という立場は、どう考えても「グノーシス主義」的だと思われる(イエス=キリストとしての「神の受肉」という考え方はキリスト教としては一般的なのかもしれないが)。また「上からの光」に照射されてことばを語るという場合、それはとても神的な出来事(観想)であるに違いない。この意味でウィトゲンシュタインのキリスト教観には、ある種の危うさというか、カルトすれすれな部分が伴っているように思われる。裏を返して言えば、カルト的なキリスト教観の正当化のための「哲学」はいかにして可能か。そういう哲学であったのではないか。という疑問も湧いてくる。ただし、正統的な哲学がどうであるかはこの際、どうでもいいことである。

 彼は確かに数多くの「預言者」を排出した民族の末裔であり、そのことを自覚的に認識していた。この点で、「聖書」に対する視点は普通のイギリス人よりも複雑であったに違いない。
 

「反哲学的断章」P27から引用。

1930年
 ある特定の人が部屋に入ってくるのを、君が欲しないのなら、その人たちが鍵を持っていないような鍵を、つるせばよい。しかし、そのことについてかれらに一席ぶつのは、愚かなことである。もっとも、部屋を外側からほめそやしてもらいたい、という魂胆があれば、また別だけれども。
 礼儀をわきまえた、気品ある態度。錠をあけることができる人だけに気づくように--いいかえれば、そのほかの人には気づかれないように--鍵を扉のまえにつるすこと。

 この文章は「論考」出版後の約十年後。ケンブリッジ復帰の比較的直ぐあと、「哲学的考察」の「序のためのスケッチ」に関連して書かれた文章の一部です。この引用を何と関連づけたいのか。私は何がいいたいのか。それは、ウィトゲンシュタインの著作はある種の「ウィット」なのである。というか、彼の文章は意図的に仕組まれた「ダブルミーニング」な著作であり得る。ということ。ある視点がなければ全く別の文章として読み得る構成が意図的になされてあるかもしれない。ということの当人からの示唆がある。ということです。

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 等とここまで、書いてみて、どうも私自身の重力で空間をねじ曲げているような気がしてきました。



10. 永井均の独在論 (98.4.28)(99.8.16.改)

昨日新宿へ出た折りに、ルミネの青山ブックセンターで、永井均氏の『<私>の存在の比類無さ』という本を購入して読んでいるところです。ウィトゲンシュタインの独我論について踏み込んだ議論がなされていることに興味を感じたので。

213頁よりの引用(マクギネス・モンクのウィトゲンシュタインの伝記本に対する書評から)

...しかし、ウィトゲンシュタインにとって哲学が何かを隠す(たぶん自分に)ためのものであったという疑惑には確かな根拠があるのだ。この二著で紹介されている暗号日記や数々の私信における彼の関心事と、彼の哲学的著作における問題関心のの間には明らかな断絶があるからだ。ウィトゲンシュタインの場合、なぜその哲学的著作においてはけっして書かれてはならない事柄というものがあるのか。それが問われねばならない謎を与える。

 さて、確かに氏の言うとおりであるが、それは「謎」であろうか。「謎々」なのではないか。ウィトゲンシュタインは先に引用したとおり、

>
>「反哲学的断章」P27から引用。
>
>1930年
> ある特定の人が部屋に入ってくるのを、君が欲しないのなら、その人たちが鍵を
>持っていないような鍵を、つるせばよい。しかし、そのことについてかれらに一席
>ぶつのは、愚かなことである。もっとも、部屋を外側からほめそやしてもらいたい
>、という魂胆があれば、また別だけれども。
> 礼儀をわきまえた、気品ある態度。錠をあけることができる人だけに気づくよう
>に--いいかえれば、そのほかの人には気づかれないように--鍵を扉のまえにつるす
>こと。

鍵はつるされてあるはずなのである。それを読みとれなければ、謎々は謎のままに終わるであろう。

さらに続けて引用

 「語り得ぬもの」であるからだ、というのがその哲学の内部での理由だ。だが、哲学の外部では彼はそれを雄弁に語り続けたのだ。とすれば、彼にとって哲学とはいったい何であったのか。
 自己救済のための手段、というのが理解可能なひとつの答えである。だが彼は、凡百の思想家が常にそうするように、自分の生のあり方にとって都合のよい思想を自ら創り出すことによって、自分を救おうとしたのではない。まさにそういう可能性こそが初めに徹底的に絶たれていなければならなかった。そうではなく彼は、哲学するというその行為それ自体だけがそのまま自己救済であるような、そういう哲学のやり方を自ら編み出し、それを実践したのである。

この文節に関しては、まさに書かれている通りだと思えます。ただし、このような「自己救済」を目的とするような思索・哲学が、キリスト教に裏打ちされている。という視点は必要だと付け加える必要はある。さらにいえば、「救済の認識」を得るがための思索・思想の一形態がグノーシスであるともいえるわけです。


さらに続けて引用

 だから、ウィトゲンシュタインの哲学には明かな盲点がある。いかにしても真正面から見すえることの出来ないある地点が存在する。その徹頭徹尾誠実な倫理的態度と徹頭徹尾真摯な哲学的姿勢が決して直視することができない一点があるのだ。それはその誠実さとその真摯さそのものである。彼の誠実さと真摯さは、その誠実さと真摯さそのものを対象とすることはできない。だから彼は、自己の倫理的なきびしさそのものに対して倫理的に厳しく関わることが出来ず、それゆえに倫理に関する哲学的洞察もない。そこにあるのは、たぶん惑溺と呼ばれてよいある種の弱さである。

 ここの文節で永井氏が書かれていることは、私見では間違っているように考えます。フォン・フィッカーへの手紙にもあるように、『論考』はまさに「倫理」こそが問題にされている。それは語り得ないが故に記述されなかった。ウィトゲンシュタインにとっての倫理とは「情熱」という語とほぼ同義であり、それは「弱さ」の対極にあるはずの「生」を拍動させるモチベーションとなるような何かであって、彼の哲学はその「情熱」に触れずにそれを取り囲む寺院のごとく存在している。LWの哲学あるいは『論考』はまさにそのような倫理を被う鎧帷子のようにして記述されている。

>P14. 1929年
>「わたしの理想は、ある種の冷たさである。情熱に口をはさむことなく、情熱をとりかこむ寺院。」

 永井流に言えば、自身が真に誠実で真摯であるかどうか。ということを観測するための方法論が「学」として文字記述されなければならない。それが倫理学であり哲学者の進むべき道である。ということであろう。しかし、このような見方は独断を含んでいる。すなわち、倫理的な方法論の一切合財は記述可能であるという仮定は正しい。という独断である。これが独断で無いとすれば、全く倫理的に正しい命題が可能でなければならない。また相対的な正しさを超えていなければならない。倫理学はまさにそのような「倫理的に正しい絶対命題」だけで記述されなければならないだろう。しかしそういう倫理学が可能である。ということは仮定に過ぎない。仮定は批判の論拠になり得ない。しかしイデアリズムはその信奉者にまさにこの ??うな盲点を与え続けるのである。

 LWの『論考』において「記述(命題)」は指し示し以上のことができない。したがって「倫理的に正しい」命題は論理的に存在し得ない。ということがLWのいわんとするところである。LWからすれば「倫理的に正しい命題」を仮定すること自体ナンセンスなのである。LWは『論考』で厳密な学としての論理学における命題の非倫理性をこのように明らかにした。しかしそれだからといって、人の生を正しく生きる努力を否定したわけでは決してない。むしろ、あらゆる「イズム(主義)」につきまとう「正しさ」の胡散臭さを論理的に明らかにしている。命題が倫理的価値を自ら内包し得ないと示すことは、正しさのリファレンスとなるような命題は存在しない。と明言することであるのだから。それは「イズム」はすべて相対的にしか正し??を主張し得ない。ということだ。倫理学もこの意味では一種のイズム(主義)を超えることはできない。『論考』時のLWの宣言はかなり激烈であるが、言語ゲームの視点で語り出して以降のLWは「正しさを競う言語ゲーム」をある程度認めてはいるけれど、まさにイズムの言語ゲームは相対的でしかない。ということ以上のことは言っていない。

中略として、結語部分を引用

....だが、もし独我論が霊(=精神)の問題ではなく存在の問題であるとすれば、「外的世界に対する希望なき戦いのなか」でさえ、なお厳密に独我論的であることはできるし、それは有意味なまた幸福な生ともなりうるのではないか。そんな思考の可能性はありえないだろうか。

 ウィトゲンシュタインの独我論について、永井均氏が見落としている点が一つあるとすれば、それは、<ウィトゲンシュタイン>の外部に立つ我々の視点から彼を「独我論者」と呼び得るのだとしても、彼の独我論は彼のキリスト教理解とのバランスを保った独我論である。という点だと思えます。
 逆に言えば、キリスト教的な「信仰」(正しさを語ることではなくて正しさを生きること)という視点を持たずしてウィトゲンシュタインの独我論は理解できない、そういう性質のものだということです。ウィトゲンシュタインの著作には書かれていない「信仰」はまさに誰にも見えるようにしてつるされてある「鍵」なのであるにもかかわらず、その鍵を用いないで彼の著作は読み得る。永井均氏もまさにそのようにして読んでいるように見えるけれども、それでは読み間違う可能性が大きい。ウィトゲンシュタインの独我論は、おそらく、永井氏の望むような「存在論」としての独我論ではない。読者が自らの「信仰」的な何かを鍵として読み添えてはじめて理解が可能になるもの。その意味で<永井氏>において「宗教抜き」の「独???論」は可能であるかもしれない。だけれども、ウィトゲンシュタインにおいては、おそらく不可能なのではないか。そう言えると思う。



11. 西洋思想史 v.s. あってある私 (98.5.14)

白水社版 ハイデガー「ニーチェ1」第4章(P.30)より
『およそ西洋哲学の終末にあって、なお哲学的に問い得、かつ問わねばならぬ者にとって、決定的な問いとは、もはやただ存在者がどんな根本性格をもつか、存在者がどんな性格であるか、という問いではない。決定的なのは、存在そのものが何か、という問いである。それは存在者の存在を問うだけでなく、<存在の意味>を問う問いである。その際、<意味>とは、厳密に限定された概念であって、およそ存在そのものがそこから、またそれにもとづいて開示され真理に到りうるところのものを指す。...』


反哲学的断章より(P.30)
1931年
『わたしがけっして近よらない問題、わたしの軌道あるいはわたしの世界にはない問題がある。西洋の思想世界の問題。ベートーベンが(そしてことによると部分的にはゲーテが)近づき、そして格闘した問題。しかし、これまで、どの哲学者もあつかったことのない問題(ことによるとニーチェがそばを通り過ぎたかもしれないが)。そしてことによると、この問題は、西洋哲学から抜けおちているのかもしれない。つまり、西洋文化のなりゆきを叙事詩として感じとり、だからこそ、それを記述できるような人物はいないのではないか。.....』

 ハイデガーの言う「哲学の問い=存在?」とは、西洋思想史の中の根本問題であろうけれど、ウィトゲンシュタインにおいて、この種の「存在?」という問いは問題になっているのだろうか? この種の問いと格闘する権利は哲学をする者の「既得権」であることは確かなことだけれど、およそ、ウィトゲンシュタインにおいてはこの「存在?」という問題は問題になっていなかったのはないか。いやおそらくは、「存在?」という問いとその問いに対する答えの模索から発する陳述はすべて謬見として「言語批判」の対象にしかしていない。という風に読める。

 「存在?」が問題にならない場合。とは「無存在」である場合か、「絶対存在」である場合のいずれかであろう。何も無ければ「存在」を問うことは出来まい。また、存在が確実ならその存在を疑うことは意味をなさないであろうから。

 ハイデガー流の問題意識としての「存在?」は、おそらく、ウィトゲンシュタインには「問題外」の「問題」であった。と私には思われる。ウィトゲンシュタインにおいて、「在る者は在る」のであろう。しかし、この種の叙述はトートロジーだから論理的な意味を有するとは思えない。「在るものの在り様をあるがままに叙述する。」という叙事詩を書くための視点は「在って在る」という確信なければ存立不可能であろう。従って「存在?」な西洋哲学の営為の中では「叙事詩的」視座を確保することは難しいに違いない。

 「論考」の「写像理論」はあるものをあるがままに記述するための文法だと言える。しかし、言葉は言葉である限り「在り様」を指し示すことしかできない。というのが「論考」の視点でもある。だからといって、「論考」は「無」と「有」との間で発振しているわけでないのである。

 「色即是空 空即是色」という般若心経の有名な節句では、「無」と「有」とが発振している。「無」は「有」であり、「有」は「無」であるのだから。しかし、基本は「無」である。(と思う)。

 「絶対無原則」と「絶対有原則」の2つの立場は、「存在?」を問題としない。問題としないという態度は「解答」ではない。つまり「存在?」そのものをナンセンスとする立場なのであって、この態度は先の2つの立場に共通する。しかし、「絶対無原則」と「絶対有原則」の2つの立場は似ても似つかぬ程に異なるではないか。

 だから、仏教(禅)的「絶対無原則」な立場からの独我論と、(私観ではあるが)ヘブライ=キリスト教的ウィトゲンシュタイン流「絶対有原則」な立場からの独我論から「存在?」を眺めた場合、似たような言語表現が可能になることがあり得る。ということに不思議さはないと思う。けれども、それらは似ている様に見えたとしても、類似した意味を受け取れたとしても、同一であるなどということはできないと思える。

 旧約の「神」は「在って在る者」である。その神が「あれ」と言って「ある」(創世記)の「(内=外)世界」を生きる者は在るのである。という信仰に根ざす確信がウィトゲンシュタインをして「西洋哲学の根本問題」=「存在?」に対抗させる根源になっていると思われる。ウィトゲンシュタインにおいて、信仰は「存在」を基礎づけ担保するものである。信仰に揺らぎがなければ「存在」を疑う必要すらない。というのがウィトゲンシュタインの言葉の根幹にある。と私には思えてしかたないのである。



12. 「論考」の序文について (98.5.20)

今回は、「論考」の序文について。

別段、「論考」を読み直した。というわけではないのですが、いくつか気になる点が生じたのでそれをメモする意味で少し書き記してみたいと思います。

バートリーの著書「ウィトゲンシュタインと同性愛」(何たる題名!)より
P.63 フォン・フィッカーへの手紙から
『この本の狙いは倫理的なところにあります。かつてわたしは、序文のなかに、現在は事実としてそこには含まれてはいませんが、ある文を含めておこうとしました。しかし、ここではあなたのためにそれを書き記しておきたいと思います。それはあなたにとって、おそらく、本書への鍵になるでしょうから。当時、記しておこうと思ったのはこうでした。わたくしの仕事は二つの部分からなっている。ここに提示されたものと書かれなかったいっさいとである、と。そして、重要なのは、まさしく、この第二の部分です。わたしの本は、いわば内側から倫理的なものの領域に限界を引こうとしているのでして、わたしの確信からすれば、これがそうした限界を引く唯一の厳格な方法なのです。手短にいえば、こんにち他の多くの人びとがまさにおしゃべりしているところで、わたしは、じぶんの本のなかで沈黙することにより、あらゆるものをそのあるべき場所にしかと据えたと信じています。またその理由からして、もしわたしにして大きく誤っているのでないとすればの話ですが、この本は、あなた自身がいわんとしたことについても多くを語っていることになるでしょう。もっとも、あなたには、この本の中でそれが語られているということがわからないかもしれませんが。いまわたしは、あなたには、序文と結論を読んでもらいたいと思っています。なぜなら、それらは、この本の狙いを率直に表現しているからです。』

ということで、ウィトゲンシュタイン自身の「論考」に対する解説としてこの文章を読むと、「論考」の理解のためのキーは、序文と「7.語り得ぬものについては、沈黙しなければならない」という結語である。ということになります。

 実は、最近読んだジルソン&ベーナーの「アウグスティヌスとトマス・アクィナス」(みすず書房刊)の中で、以下のような一文を見つけたのでした。 P.98

『われわれが神にあてがうあらゆる名称、我々が神に対して用いるあらゆる陳述、それらは神の本質をわれわれに開示することはできない。われわれが、神は言い表されないものである。という場合ですら、われわれは神についての不十分なあることを語ったことになる。ここでは言葉よりも沈黙が一層ふさわしいのである。--- 「さまざまな言葉による論争は、言葉によって調停されるべきであるというよりは、むしろ沈黙によって配慮されるべきである。(quae pugna verborum silentio cavenda potius quam voce pacanda est.) (キリスト教の教えについて1.6.6)」。』

「探求」の冒頭の第一節がアウグスティヌスの『告白』の引用から始まることを考えると、(しかもその引用はウィトゲンシュタインが彼の著作の中で明示的に行った希有な引用例でもある)ウィトゲンシュタインはアウグスティヌスをそこそこ読み込んでいたであろうことを推察することができる。ということを考え合わせると、彼の有名な「7.語り得ぬものについては、沈黙しなければならない」という一文が彼自身のオリジナルな言説では必ずしもなく、実は先のアウグスティヌスの一節の引用にほぼ準じるものである。と解することは不可能なことではないと思えます。

「論考」の序文より抜粋
『わたくしの意図がどの程度まで他の哲学者たちのそれと合致しているか、わたくしは判定しようと思わない。実際ここで書かれたことの詳細は、およそ新奇なものではない。そしてわたくしの考えたことが、すでに以前、他のひとによって考えられていたかどうか、そこに私の関心はない。いかなる出典も引用しなかったのはそのためである。』

 このように、ウィトゲンシュタインは、自身に対する引用的、出典的影響の痕跡を極力排除し抹消している。このような抹消を行うことで「論考」の思想的文脈を「論考」内部に閉じこめることにある程度成功している。もちろん、フレーゲやラッセルからの影響は明示的なので、よくその関連が言及されるものではある。

 アウグスティヌスは4世紀の人で、聖人に叙せられているキリスト者だけれども、若い頃は「マニ教徒」で、回心の後、正統的キリスト教徒となった人物。彼はいわば正統的キリスト教の神学を基礎づけ、彼以降、トマス・アクィナスが現れるまでの間の長き1000年の間影響力を持った思想家でもあるわけです。

 ウィトゲンシュタインの「論考」の結語とアウグスティヌスの「神」に関する議論に関する態度とはかなり似通っている。と読むことが出来ます。ウィトゲンシュタインは「論考」において「神学」を字句に認め、論じたわけではない。けれども、「倫理的」なるものを「沈黙」をもって遇することで無記述をもって記述したのだ。と先のフォン・フィッカーへの手紙では明言しているわけです。すなわち、ウィトゲンシュタインにとって、倫理的な何事かを無理矢理言えば、それはおよそ全てにおいて「神」に一任されてあるものだということがができる。

「論考」の序文より抜粋
『もしわたくのこの著作に価値ありとすれば、それは二様である。第一に、ここでは思想が表明されている。このいみでの価値は、思想の表現が適切であればそれだけ、狙いが的の中心に近づけばそれだけ、増大することになる。---この点でわたくしは、自分がそのような可能性に遠くおよばぬ事を知る。理由はただ一つ、そうした課題ととりくむためには、わたくしの力量が余りにも貧弱だということである。余人来たり、これを改良されんことを望む。』

 先の手紙と合わせて読むと、ここで表明されている思想とはまさに「書かれてない」思想の部分を含むものである。その書かれていない部分が書かれていない。ということでなお表現されてあるのであれば、また、そのように理解できるのであれば、それは価値を有する。と読むことが出来る。ウィトゲンシュタインにすれば、本来価値とは語り得ない領域に存するものである。しかしなお価値があると言明できるのである。とするその根拠は、結局価値の源泉が「書かれていない」部分にあり、それを言い得ている限りにおいて、その叙述は価値を透写するであろうからである。従って、

「論考」の序文より抜粋
『これに反し、ここで述べられている思想の真理性は、犯しえず、決定的に思える。それゆえわたくしは、さまざまな問題をその本質において終極的に解決したつもりである。そしてもしこの確信が誤りでなければ、本書の価値は、第二に、これらの問題が解かれたことによって、いかに僅かの成果しかあがらなかったかを、示している点にある。』

 述べられている(がしかし、書かれていない部分を含む)思想の真理性。それは彼岸に位置するものであろうか。思想の真理性が有するかもしれない「価値」の源泉は彼岸に存する。しかし思想の真理性だけをとってみれば、それは論理的な真理値をいうのであろうから、彼の「論考」が正しく何事かを正しくありのままに書き記しているのであれば、それは真理性を持ち得ると彼においても言明できる事柄に属するであろう。私は先に、「論考」は「創世記」のアナロジーであると書いたが、骨格はそうであっても、「論考」は「創世記」の注釈書としての書物では決してない。「犯しえず、決定的な真理性」と明言できる自信は、おそらくは、「論考」が含有する「論考」で云う論理的形式が「創世記」あるいは聖書のそれに依拠する ??うに構築されてある点で担保されているのだと思える。しかし実際の議論は徹底的に論理学の枠内で済ませられている。そこでの議論は論理学的な真理値を保持できる形而下の議論に収まっているのである。「論考」は聖書(創世記)と論理的形式を一にしている。従って(創世記)が有する論理的形式が正しい限りにおいて「論考」は正しい。という彼の確信が誤りでなければ、結局は、論考は創世記が示す論理的形式以上の事を語っていないのであるから、創世記が語り得た論理形式以上のことを表現した書物ではないということも同時にいえるのだと思える。

 「論考」で記述されてある文言上の思想に限って言えば、その幾つかは後に自己批判の対象となり撤回されているけれども、書かれていない部分についてはどうか。それは後期の言語ゲームという概念にさえ含み得ない。なぜなら語り得ないのであるから、それはある意味で言語ゲームにならないからである。沈黙を是とする信仰における無言の祈り。これまた言語ゲームの一種であろうか。「探求」における言語ゲームは「有言」な言語ゲームだけを措定しているとはいえないだろうか。「有言な言語ゲーム」を記述することで、無言な言語ゲームを外側から境界づける試みであったのではないか。

 「論考」の成果は極めて僅かである。というウィトゲンシュタインの言う成果とは、結局、彼の哲学は信仰を越え出ない。という点に集約されるということだと考えます。さて、しかし、ここでの信仰とはただひたすら「父なる神」に対するもので、受肉した神=イエス=キリストは介在していないように見えます。あえて言えばとても旧約的な信仰、キリスト教というよりユダヤ教的な信仰に近いと思われます。後年、小学校教師を経て、また様々に思い悩む時期を経て「救済」あるいは「復活」という、より新約的な信仰を深めることが、実はウィトゲンシュタインの後期思想の転回点になっている。前期・後期の思想的変遷はなぜ生じたのか。という外的な疑問は、実はウィトゲンシュタインの内的な信仰の深まりあるいは変容をバ ??クトレースすることでかなり明らかに出来る。最近ではその様に考えるようになっています。

【参考資料】(キリスト教の教えについて1.6.6) WWWサイト"Augustine"より引用。

CHAP. 6.--IN WHAT SENSE GOD IS INEFFABLE.

6. Have I spoken of God, or uttered His praise, in any worthy way? Nay, I feel that I have done nothing more than desire to speak; and if I have said anything, it is not what I desired to say. How do I know this, except from the fact that God is unspeakable? But what I have said, if ithad been unspeakable, could not have been spoken. And so God is not even to be called "unspeakable," because to say even this is to speak of Him. Thus there arises a curious contradiction of words, because if the unspeakable is what cannot be spoken of, it is not unspeakable if it can be called unspeakable. And this opposition of words is rather to be avoided by silence than to be explained away by speech. And yet God, although nothing worthy of His greatness can be said of Him, has condescended to accept the worship of men's mouths, and has desired us through the medium of our own words to rejoice in His praise. For on this principle it is that He is called Dues (God). For the sound of those two syllables in itself conveys no true knowledge of His nature; but yet all who know the Latin tongue are led, when that sound reaches their ears, to think of a nature supreme in excellence and eternal in existence.


13. ウィトゲンシュタインのギリシア哲学嫌い(98.5.27)


 率直な感想を述べると、ウィトゲンシュタインはどうも大のギリシア哲学嫌いであったかと思われる。彼の個人的な手稿を読むと、プラトンやソクラテスへのコメントには惨憺たるものがある。

反哲学的断章より
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P43 1931年
『ソクラテスの対話を読むと、こんな気持ちにおそわれる。なんとおそるべき時間の無駄! なにも証明せず、なにも明らかにしない、これらの議論は、なんの役に立つのか?』
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P45 1931年
『「哲学はまったくなんの進歩もしていない」。「とっくの昔にギリシア人があつかったのと、おなじ哲学の問題に、わたしたちは頭を悩ましている」。耳にたこができるくらい、これは繰りかえされてきたせりふである。ところで、こういうせりふを口にする人は、なぜそうなってしまったのか、という原因がわかっていないのだ。その原因といえば、わたしたちの言語があいかわらずおなじでありつづけていること、そして、繰りかえしわたしたちが判で押したようにおなじ問題に誘惑されること、なのである。「sein(存在する、....である)」という動詞---これは「食べる」や「飲む」などと似たはたらきをするようにおもわれる---があるかぎり、また、時間の流れや、空間のひろがり、などが話題にのぼるかぎり、またこ ??らに類似したその他のその他の事情があるかぎり、人々はおなじように困難な謎に、何度も何度も繰り返し、ぶつかることになるだろう。また人びとは、どんな説明をもってしても、かたづけられないような問題を、凝視することだろう。
 ちなみに、こういう堂々めぐりは、「超越」への望みを、満足させる。というのも「人間の知性の限界」を見た、と思いこむことによって、もちろん人びとは、限界をこえて見ることができる、と思いこむからである。』

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P45 1931年

『「.....哲学者たちは、プラトンが近づいた以上には「実在」の意味には近づいてはいない、....」という文章を読む。なんと奇妙な状況だろう。これでは、プラトンがそんなに遠くまでたどりつけた、ということになってしまう。それとも、わたしたちのほうがプラトンより遠くにすめなかった、ということか。どちらにしても、なんたる異常! つまり、プラトンはそんなにも利口だった、というわけではないか。』
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P83 1937年
『.....つまり、新しい言語が登場するたびに、おそまきながらわたしたちは、以前の説明をやくたたずと証明できるのではないか、と考えたくなるのである。(言語は、つねに新しく---しかも不可能な---要求をつきつけてくるものだから、どんな説明だって例がいなく、無効になる。そうわたしたちは考えたわけだ。  だが、これは、ソクラテスが概念を定義しようとしたとき、陥った困難なのだ。繰りかえし、言葉の新しい用法が姿をみせる。それは、これまで私たちの知っていた用法からつくりあげられた概念とは、両立できないような用法なのである。わたしたちは、「そういうはずはない!」---「だがしかし、実際そうなのだ!」という。私たちにできることはといえば、そういう対立を繰りかえすことでしかない。』
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P150 1947年
『ソクラテスは、いつもソフィストを黙らせてしまう。---ソクラテスがソフィストを黙らせることは正当なことであろうか。---たしかにソフィストは、自分がなにを知っていると思っているのか、がわかっていない。だからといって、それでソクラテスの勝ちというわけではない。つまり「ほら、きみにはそれがわからないじゃないか。」ということにはならない。また「要するにわたしたちはみんな、なにもわかってはいないのだ」と、鬼の首でもとったかのように主張されているわけでもない。』
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 以上引用したように、ウィトゲンシュタインにとって、ソクラテスの弁証法はほとんど意味をなしていない。プラトンの形而上学はどうか。1931年のメモだけからは推し量るのは困難であるが、プラトン的な思想から遠く隔たった場所にいるということだけは確かだろう。

 【総じてギリシア哲学とは「sein」という動詞の用語法に関する言語ゲームなのだ】。と言っているようにも読める。「存在とは何か?」という問いを「存在するという動詞の正しい用語法とはどういうものであるのか?」という文法上の問題に置き換えてしまう試み。ウィトゲンシュタインはそこまで言うのであろうか? しかし、そう言いたそうではある(笑)。

  新しい用語法。新しい理論。これらに付き従って旧来の理論や表現を打破してみたくなる。これはどこにでも転がっている人間の知的欲望の一形態であろう。出来立ての理論をどこかからか輸入して既存の学界定説を覆してみせる。これは若き研究者なら誰しも夢見るヒーローストリーであるに違いない。そうしてある研究は進むのかもしれない。ギリシア的な哲学は「sein」の用語法を巡って、そうした用語法の乱立混乱をずっと支えてきた。そうした認識がウィトゲンシュタインにはあるように思える。彼が「哲学とは言語批判である」という時、その矛先はこのギリシア哲学とその派生哲学にこそ向けられてはいないだろうか。

 ギリシア哲学は、キリスト教が成立する時期、キリスト教に対して極めて大きな影響を与えた思想である。オリゲネスの昔からキリスト教神学の歴史はギリシア哲学との折り合いをつける歴史でもあったと考えられるのであるが、ウィトゲンシュタインは、おそらくはそうしたギリシア哲学と融合したキリスト教とは対極にあって、いわばヘブライズム的なキリスト教理解、つまりギリシア哲学の影響を極力排除捨象する志向をもっていたのではないかと思われる。私はこの点は要であると考える。なぜなら、ユダヤ教の完結としてのキリスト教を受容する。というあり方は自覚的なユダヤ人としてのウィトゲンシュタインにとっては無理のない自然な流れであったであろうから。それはウィトゲンシュタインの思想と信仰との折り合いの耀|?でもある。

 このように考えると、ウィトゲンシュタインは、グノーシス主義者ではあり得ない。ということも言えるかもしれない。グノーシス主義はヘブライ=ユダヤ教=>キリスト教がヘレニズム的混合を経て一種思弁的な信仰に傾いた一派であり、新プラトン主義的な形而上学とよく馴染むものであるからである。例えばアウグスティヌスはそうしたグノーシスの流れの一つの終点に位置するマニ教の信者であったが、回心して正統キリスト教徒になった人物である。アウグスティヌスはグノーシス批判でも知られるが、おおよそにおいて、過度なヘレニズム化に対する批判がその基本である。

 キリスト教からギリシア思想を捨象し排除することは可能である。その結果そこに残るのは純粋なヘブライ思想とユダヤ教のラビでもあったユダヤ人としてのイエス=キリストである。しかし西洋哲学からギリシア哲学を捨象し排除したら何が残るのであろうか。これを想像するのは難しい。そうした哲学を行う一人の人物としてウィトゲンシュタインが残るのかも知れない。


14.ジグソーパズルとしてのウィトゲンシュタイン(98.5.30)

 ウィトゲンシュタインの思想の全体像を理解するということは、少なくとも私にはジグソーパズルを組み上げるに似た趣を感じるところがある。彼の著作のスタイルが断片を寄せ集めることで成り立っているせいもあるが、奇妙な形をしたそれぞれの断片に心捕らわれて、彼が全体を通して何の絵を描こうとしたのかが分かり難い。という読み手にとっての「完成図」が明示的に示されていないパズルであるというところに、かえって面白味を感じている。という次第である。

 実はウィトゲンシュタインは、「絵」ではなく「音楽」を言葉で書こうとしたのではないか。そう思える節がある。幾つかの主題を様々に組み合わせて変奏曲に仕立て上げる。そんな意図があったのではないか。彼の手稿を読めば、彼がいかに音楽に通じていたかがよくわかる。オーストリアのウィーンで19世紀の世紀末で青春を過ごした哲学青年ならでは。というところか。

 しかし、「絵」という観点で見れば、ウィトゲンシュタインの描いた「絵」の中央には明らかに空洞がぽっかり口をあけている。「語り得ぬ領域」というその空洞は、明確に線引きがなされていて輪郭を辿れるように縁取りがなされてある。遠くからみなければその輪郭が何を顕しているかはわからない。その縁取りだけで描かれた絵の中央には何がはまるのか。それは「信仰」である。というのが私の考えである。

 ウィトゲンシュタインが自身の哲学において「信仰=宗教」をあからさまに持ち込まなかったのは、そうすることが宗教者として哲学を行う際に取るべき態度であるという信念に基づいていたからだ。ということは必ずしも正しくない。「宗教」と「哲学」は完全に切り離して別個に営為されるべきものだということではなかった。むしろ、信仰が「哲学」によって蝕まれることを忌避し、「哲学」が信仰によって蹂躙されることを拒絶するためにこそ、その境界線を厳密に引かねばならない。と考えたのであろう。この線引きこそがウィトゲンシュタインにおいて哲学を可能にする大前提であった。また彼の思想はその線引きの両側を含むという点を見逃してはならない。

 「信仰」と「哲学」との混同による混乱は西洋思想の歴史でもある。例えばギリシア思想に含まれる多神教的な考えはユダヤ教<>キリスト教には本来馴染まない。しかし2世紀に生きた神学者オリゲネスに対する異端の刻印は、彼が本来ギリシア哲学の教師であり、その博識の故にキリスト教をギリシア哲学の視点から理解しようと努めさらにそうした視点から著した著作に起因している。またグノーシス主義として知られる「異端」な一派は思索の深みにおいて人は神と同一化することが可能であるという立場を取ったのであるが、これも一神教としてのキリスト教とは相いれられないものとして排斥されている。このような神学上の異端論争の主因が宗教理解とギリシア哲学さらには科学との折り合いをどうつけるかと言う問題??主たる論争点であったのは疑うべくもない。

 繰り返しになるが、読み手の側からすれば、少なくとも私には、ウィトゲンシュタインの思想は、様々な哲学的言辞としての断片で打ち固められた縁取りとその縁取りによって輪郭づけられた空洞・白抜きの絵として、「信仰=情熱」が顕われてくる2つの部分から成り立つジグソーパズルなのである。まさに中央に位置すべき絵は遠目で見た場合に限りそれが浮かび上がって顕われてくるように仕掛けられてある。この観点でみれば、前期も後期も実は存在しない。とさえ言えると思われる。


15. ウィトゲンシュタインとドストエフスキー(98.6.9)

 ウィトゲンシュタインはロシア文学、特にトルストイとドストエフスキーの影響を受けていると言われている。といっても、私の知る限りでは彼の独白の中からその影響を推し量るのは難しい。

反哲学的断章 P156-157
1947年
トルストイは「芸術作品は『感情』を転送する」というまずい理論を立てたが,わたしたちはそれから多くのものを学ぶことができるのではないか。--- じっさいわたしたちは、芸術作品のことを、感情表現そのものとは呼べないにしても、感情的表現、または感情つきの表現と呼ぶことはできるだろう。だから「その種の表現がわかる人は、その種の表現と同じように『振動して』、その種の表現にこたえるのである」とも言えるのではないか。「芸術作品は、なにか別なものを転送するのではなく、芸術作品じしんを転送しようとする」と言えるだろう。それはちょうど、わたしがだれかを訪問する場合に似ている。つまり、わたしは、たんにそのだれかにこれこれの感情を呼びおこしたいと思うだけではなく、むしろ、なによりもまずそのだれかを訪問したい。そしてまた当然のことだが、歓迎されたいと思うわけである。
 だから、「自分が書くさいに感じることを、読者には読むときに感じてもらいたい、と芸術家はのぞんでいる」などと主張することは、ますますもってナンセンスなのだ。(たとえば)ひとつの詩を理解するということは、その詩のつくり手がそう理解してもらいたいと思うような具合に理解することである。この事情はわたしにもよくわかる。っしかし、「詩人がその詩を書くさいになにを感じたのだろうか」ということは、わたしにはまったく興味がない。

P202(1948)
 
きみの書くものは理解しにくいから、君は下手糞な哲学者なのではないか。きみがもう少しましな人間なら、むずかしいことをわかりやすく書くと思うのだが。----ところで、そんなことができるといったのはだれだ!? (トルストイ)

 これらの文章を読む限りでは、さしたる影響は読み取ることはできない。

 状況証拠としていえば、ウィトゲンシュタインはケンブリッジに戻ってから、パスカル夫人を家庭教師として仰いで「ロシア語」の勉強を行い(1934~1935年)、何度かロシア(ソビエト)への移住を計画し実行に移そうとして試みたことがある。という点が気になる。実際にロシアへの旅行も行っている(1935年9月)。そして1936年は知人に対する懺悔告白訪問シンドロームに陥っている。

 また、マルコムの「ウィトゲンシュタインと宗教」のP17にある引用には

 しかし --- 事実我々はそう言われているのだが --- 、キリスト教は祈りの言葉を沢山言うことではない、ということを思い起こせ。もし君と私が宗教的な生活を送ろうとするならば、我々は宗教について多くを語るべきではなく、我々の生活の仕方が変わらなくてはならないのである。私の信じるところによれば、君が他の人々を助けようとするときにのみ、最後には君は神への道を見出すであろう。

 「生活の仕方を変える」という主題はドストエフスキーの主題でもあった。最も一般的な「罪と罰」のエピローグにこうある。

新潮文庫版「罪と罰」下巻P457

 それに、こうした一切の、一切の過去の苦痛とは果たして何であるのか! ....(中略)....いま彼はなにごとにもせよ。意識的に解決することが出来なかったに相違ない。彼はただ感じたばかりである。弁証の代わりに生活が到来したのだ。従って意識の中にも、何か全く別なものが形成さるべきはずである。

 ラスコーリニコフはソーニャの献身的な愛を通して牢獄に入ってはじめて自由を得る(ドストエフスキー的な逆説!)。それは「新しい生活」なのである。ウィトゲンシュタインもまたおそらくはドストエフスキー的な「新しい生活」を欲していたに違いない。さもなくば、ロシアへの移住など誰が計画するだろうか。ウィトゲンシュタインはキリスト者(本人は「福音伝道者」だと自称していた)ではあったが、マルキストではなかった。(トラッテンバッハの住人は彼を「アカ」とみなしていたようであるが)その彼がロシアへの移住をなぜに望んだのか。それは、ソーニャの台詞にある

新潮文庫版「罪と罰」下巻P423
 「四つ辻へ行って、みんなにお辞儀をして、地面に接吻なさい。だって、あなたは大地に対しても罪を犯しなすったんですもの。そして大きな声で世間の人みんなに『わたしは人殺しです!』とおっしゃい。」

 このソーニャをして語らしめたドストエフスキーの言葉には迫力がある。ドストエフスキー好みな人々にとって、ロシアの大地はこのように実に特殊な大地なのであるということが言えると思える(^_^)。

 バートリーの本では、ウィトゲンシュタインはトラッテンバッハでの小学校教師赴任時代にはドストエフスキーの熱心な読者であることが示されている。

 

W.バートリー「ウィトゲンシュタインと同性愛」 P124
 事実、彼らの関係(同僚ノイルーラーとウィトゲンシュタイン)は非常にうまくいっていた。彼らはラテン語で、会話を交わし、また手紙を交換していたと言われている。そして、ウィトゲンシュタインは、繰り返し、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読んで聞かせたのである。

 そう、ウィトゲンシュタインはラテン語には不自由していなかった。ということはアウグスティヌス等も原典で読めた。ということを意味する。

 いずれにせよ、「弁証にとってかわる生活」というドストエフスキー的なスローガンが後期のウィトゲンシュタインの核の一つだと思われる。彼の後期の思想はある意味でこの強力な磁核を中心に反転して形成されたと言える。哲学から弁証の除去すること。ありのまま事実を記述すること。議論のための概念を捏造して議論に導入しないこと。等など。

 さて、振り返ってみて思うことがあるとすれば、ウィトゲンシュタインが残した個人的な言行録の中でさえ、やはり彼は内心を吐露しつくすような核心を明らかにしているようには思えないということである。特に重大な影響を受けた思想や人物に対するコメントの多くは沈黙で封印されている。つまり「私小説的な独白」が欠落しているように思われる。私自身、この一連のスレッドで記していることは、いわば外堀の外から外堀がどうなっているのかの観察録に過ぎない。内堀から中は見えないから想像するしかないのである。

P.S.  もう一つの「鍵」に関するコメント(反哲学的断章P146 1946年)
 錠前師が置いた場所に、鍵が永遠に置き去りにされていることがある。錠前をあけるようにと錠前師がきたえあげた鍵なのに、まるで使われることがないのだ。

 げげ、1946年にも1930年と同じ事を書いている。ということは、「探求」にも、きちんと鍵は吊されてある。ということではないか。

 


16. ウィトゲンシュタインの「鍵のなぞなぞ」(98.6.16)

「反哲学的断章」
P27 1930年
 ある特定の人が部屋に入ってくるのを、君が欲しないのなら、その人たちが鍵を持っていないような鍵を、つるせばよい。しかし、そのことについてかれらに一席ぶつのは、愚かなことである。もっとも、部屋を外側からほめそやしてもらいたい、という魂胆があれば、また別だけれども。礼儀をわきまえた、気品ある態度。錠をあけることができる人だけに気づくように--いいかえれば、そのほかの人には気づかれないように--鍵を扉のまえにつるすこと。

P146 1946年
 錠前師が置いた場所に、鍵が永遠に置き去りにされていることがある。錠前をあけるようにと錠前師がきたえあげた鍵なのに、まるで使われることがないのだ。

 さて、ウィトゲンシュタインの「なぞなぞ」である。1930年の鍵のなぞなぞは「哲学的文法」の序文のスケッチとして書かれている。また、1946年の「なぞなぞ」は文脈不明であるが、「探求」の脱稿前後と考えることができる。ウィトゲンシュタインはその著作に置いて意図的な隠蔽を施すことが一つのスタイルであった。例えば

 

バートリーの著書「ウィトゲンシュタインと同性愛」より
P.63 フォン・フィッカーへの手紙から
『この本の狙いは倫理的なところにあります。かつてわたしは、序文のなかに、現在は事実としてそこには含まれてはいませんが、ある文を含めておこうとしました。しかし、ここではあなたのためにそれを書き記しておきたいと思います。それはあなたにとって、おそらく、本書への鍵になるでしょうから。当時、記しておこうと思ったのはこうでした。わたくしの仕事は二つの部分からなっている。ここに提示されたものと書かれなかったいっさいとである、と。そして、重要なのは、まさしく、この第二の部分です。わたしの本は、いわば内側から倫理的なものの領域に限界を引こうとしているのでして、わたしの確信からすれば、これがそうした限界を引く唯一の厳格な方法なのです。手短にいえば、こんにち他の多くの人びとがまさにおしゃべりしているところで、わたしは、じぶんの本のなかで沈黙することにより、あらゆるものをそのあるべき場所にしかと据えたと信じています。またその理由からして、もしわたしにして大きく誤っているのでないとすればの話ですが、この本は、あなた自身がいわんとしたことについても多くを語っていることになるでしょう。もっとも、あなたには、この本の中でそれが語られているということがわからないかもしれませんが。いまわたしは、あなたには、序文と結論を読んでもらいたいと思っています。なぜなら、それらは、この本の狙いを率直に表現しているからです。』

 「論考」においてもあからさまな隠蔽が施されている。そして、それは単なるなぞなぞに留まらない重大な意義が与えられているのである。上述の手紙では、その種明かしが半分だけなされている。全て種明かしがされているわけではない。

 1930年と1946年の「鍵のなぞなぞ」はこの「論考」の隠蔽とは若干ニュアンスが異なることに注意したい。「論考」は公刊された著作であるが、「哲学的文法」も「探求」もウィトゲンシュタインの生前には公刊されてはいない。という点である。もちろん、「探求」はほとんど出版される形に仕上がってはいたのではあるが。

 この「鍵」が何であるのか。端的に言えば、それは「信仰」であると私は考える。しかし、それだけに留まるのであろうか。1930年の「鍵のなぞなぞ」はおそらくは、「論考」の作為的な隠蔽を含み込むニュアンスで語られていると思われる。しかし、その16年後にまた同様な独白がある以上、それは、後期のウィトゲンシュタインの著作にはある種の「仕込み」が一貫して組み込まれてあることを意味するのではあるまいか。ウィトゲンシュタインは職人気質の哲学者である。古典学者の中に自らを「文献屋」と卑下する学者がいるように、ウィトゲンシュタインもまた自らの器用さを卑下するところがある。

1947年
 『わたしのやっていることは、そもそも努力のしがいのあることだろうか。上からの光をうけとるときに限り、努力のしがいはある。では、努力のしがいがあるとするなら、どうしてわたしは、自分の仕事の成果が盗まれはしないかと、心配するのだろう。もしも、わたしの書くものが本当に価値のあるものであるなら、どうして、その価値のあるものが盗まれるというのだろう。上からの光がなければ、私は器用な人間にすぎないのだ。』

 そして、器用さを欠いた哲学者(例えばベイコン)に対しては厳しいコメントがある。

1946年
 『ベイコンは精密な思想家ではなかったのではないか。とわたしは思う。かれは大きな、いわば広大な、ヴィジョンをいだいていた。だがヴィジョンしかもっていない人というのは、気前よく約束はするのだが、実行力はないにちがいないのだ。』

 『錠前をあけるようにと錠前師がきたえあげた鍵なのに』と言うとき、錠前師とはウィトゲンシュタイン自身のことであろう。そしてその鍵は「鍛え上げられてある」のである。後期の思想、「探求」の思想はまさに何かの「鍵」なのである。「鍛え上げられてある」という時、そこにウィトゲンシュタイン自身がある種の満足をもって到達した深みを感じることができる。しかし、その鍵は何であり、その鍵を用いて宝箱を開けるとそこには何があるのだろうか。

 「信仰=情熱」をもって鍛え上げられた「鍵」なのである。しかし、それだけではない。それは精密な鍵でもある。また、その鍵はウィトゲンシュタイン自身によって「誰の力も借りずに」鍛え上げられたのである。あえていえば、思想的な影響をとことん排除しつつ鍛え上げられたのである。いや、思想的な影響を忌避しつつ鍛え上げたと言った方がいいかもしれない。忌避された思想とは何か。それはたぶん、ギリシア哲学とその派生哲学全体だと言ってよい。いわば西洋思想本流の思想的影響から無縁であることを貫徹したのではないか。従って、ウィトゲンシュタインの思想を読み解くとき、一般的な哲学タームを用いて理解することは、おおよそにおいて誤読に到る。従来的な哲学用語は彼の思想を読み解くための「鍵」では ?aいからである。

 錠前師が置いた場所に、鍵が永遠に置き去りにされていることがある。錠前をあけるようにと錠前師がきたえあげた鍵なのに、まるで使われることがないのだ。

 しかし、そういう「鍵」は可能なのだろうか。火星人には「ギリシア哲学=西洋思想」は無縁であろうが、「ギリシア哲学=西洋思想」と無縁な哲学は可能なのか。もちろん、東洋哲学はその一可能形態であろうとは思う。それに似た意味で、ウィトゲンシュタインにおいては旧約的ユダヤ教あるいは、ヘブライズムに依って立つ限りにおいて、ギリシア哲学とは「無縁」でよい。という確信を抱いていたのではないか。と思われる。そしてその完結としてのキリスト教の成立、すなわち「福音」によって、「哲学はそもそも不用」となっている。という確信さえ抱いていたと思われる。キリスト教の成立後になお、哲学が哲学として人の心を占めてきたのは、彼の「福音伝道者」としての観点からすれば、大いなる矛盾であったに違い ?aい。ギリシア哲学との融和の歴史が西洋のキリスト教の歴史でもある。がウィトゲンシュタインはその流れの川下にいるわけではない。あえて言えば「ギリシア哲学=西洋思想」に対峙しつつその誤謬を撃つための哲学として後期の思想は「鍛え上げられた」と言えると思われる。

 ウィトゲンシュタインは宗教者として見た場合かなり激烈な篤信家であるように思われるが、ファナティックな説教師ではなかった。むしろ精密さを第一とする哲学者であった。だから、野蛮なヴィジョンを掲げて「ギリシア哲学=西洋思想」を否定し攻撃するような、そうした分かり易さを示すことはしていない。がしかし、特に後期の思想は全体においてそれを示しているように読める。数学に関するある種批判的な考察はアンチ=ギリシア哲学者としての本領発揮と見直すことさえできるだろう。


17.ウィトゲンシュタインの独我論 -1- (98.6.20)

 実は、今日、ちくま新書版の永井均著の「ウィトゲンシュタイン入門」を近所の書店で購入してきました。4.28に入手した同氏の「<私>の存在の比類無さ」という本におけるウィトゲンシュタインの独我論に関する記述に気になる部分があり、再確認の意味もあって、読み込んでみる必要性を感じたことが動機です。速読しての感想を言えば、世の中に数あるウィトゲンシュタインの入門書として書かれた本の中でも突出した充実度をもつものだということです。

 さて、私が気になった部分というのは、<永井均>氏において、宗教あるいはキリスト教がどのような位置を占めているのか。という点でした。この点については同氏の最新の著作である「<私>の存在の比類無さ」ではほとんど触れられていないので、旧著ではどうか。という確認をする必要があると思われました。結局、旧著でもさして触れられていないように思えます。

 ウィトゲンシュタインにおいて、独我論的な視点は、いわゆる前期後期を貫いている視点であることは確かだと思われます。ただし、それを逐一的に論証し、また変化や揺らぎなどの測定を行うことは容易いことではないので、ここまで可能な限り遠回りしてきました。ウィトゲンシュタインの思想を理解しようとした場合、彼の独我論的な感性の理解無しに通り抜けることは誤読に到るであろうことは、永井氏の指摘を待つまでもないことだと思われます。ただ、しかし、独我論というのは、結局の所、人間は絶対孤独の境遇にある。ということ以上のことを論証しないものだと私は考えています。すなわち、独我論は「人間の孤独とはどのようなものであるか」ということを説明する論理以上のものにはなり得ないということです。 ??から、人によっては、そこで留まれるであろうし(そういう人にとっては独我論の解明だけで事済むかもしれない)、人によっては、そういう場を超克したいと欲するであろうこと。「救済」あるいは「救い」への欲求はなにも、独我論的徹底を自らに課す課さないないに関わらず誰しも有する欲求であろうけれども(まさにその点にカルトがカルトとして意味を生じる間隙がある)、独我論を徹底し自らの孤独と直面し尽くしたとしても、それで「救済」への欲求が解消されるということにはならないのです。

「反哲学的断章」
P91 1937年
『......ところで信仰とは、わたしの胸、わたしの心が必要とするものを信じることであって、わたしの思弁する悟性が必要とするものを信じることではない。というのも、救われなければならないのは、わたしの心と、その情念---いわば心の血と肉---のほうであって、わたしの抽象的な精神ではないのだから。.....』

 以上で引用した断片は、比較的長い断片の中の一部であるに過ぎません。従って、確かな文脈があり、そこからさらに断片を抜き出すことには問題があります。ただ、ここで長文全部をリタイプするのは面倒なのであえて省略しました。さて、ウィトゲンシュタインは理知的な思弁する「悟性」と「心=情念」とを分けています。左脳と右脳の役割の違いに対応しているとは、書いてはみたがそうはいいません(笑)。彼において、彼の哲学は悟性の働きによるものと読むことができます。信仰はむしろ心と情念とが欲するものであるとも書いています。悟性は救いを必要としてはいないが、心はそれを欲している。孤独の叫びを上げる心について悟性をもって記述すれば、それで「抽象的な精神」論としての独我論が成り立つけれども、それで心が救われるわけではない。と私は解釈します。

 ウィトゲンシュタインの哲学において独我論が重要な位置にあることは確かではあるけれど、彼の思想の中では単に「孤独」という概念を説明するための論理であるに過ぎないように思われます。人前に立って哲学を行う哲学者としてのウィトゲンシュタインと自らの孤独と戦いつつ宗教的模索を続ける思想家としてのウィトゲンシュタインと、あたかも二人のウィトゲンシュタインがいるかのごとく私には感じることができるのです。しかし、それは、世に流布しているウィトゲンシュタインのイメージと私の抱いているウィトゲンシュタインのイメージとが乖離していることによるもの。実際のところ、ウィトゲンシュタインは二人いるはずもない。それに、彼の近くにいた人々に対して、彼は哲学者としての側面だけで接していと ??うことも事実に反するであろうし。

 永井均氏の「ウィトゲンシュタイン入門」でも、なお、ウィトゲンシュタインの宗教者としての側面に対する配慮が希薄であることには一抹の寂しさを感じざるを得ません。永井氏は「語り得ぬもの」=「鍵」=「独我論」と考えているようだけれども、ウィトゲンシュタインの「思想」をこのような構図でのみ語るのは、おおよそ自身の問題意識の重力でウィトゲンシュタインの像を歪めてしまっていることのようにさえ思えます。少なくとも、永井氏の「入門書」では、ウィトゲンシュタインと宗教との関わりは全く見えて来ません。何故なのだろう。多分にニーチェの影響が見え隠れしているけれど(つまりニーチェ風キリスト教理解)、むしろ仏教的な伝統に乗った「無宗教な日本人」というパラダイムに引き連られているに過 ??ないのではないか。

「反哲学的断章」

P135 1946年
『きみが「神」という言葉をもちいるとき、その用法によって明らかになるのは、「きみがだれのことを考えているか」ではなく、むしろ「きみがなにを考えているか」のほうである。』

 ウィトゲンシュタインの思想の理解を欲する場合、キリスト教と正面向かって対峙することは不可避であるように思えます。哲学を行うのであれば、おそらく、自らの文化伝統に関わる宗教と対峙する必要があるはずで、その文化伝統のパラダイムに飲み込まれて哲学はできないのではないか。自らの文化伝統を「叙事詩」として見据える眼力が必要であるはず(第三者的な外的な視点を「超越論的視点」と呼ぶことがあるが、認識論レベルだけでなく、文化論的な場合であってもそのような安易なカテゴライズはこの際拒絶することにしよう)、それを身をもって貫徹したのがウィトゲンシュタインだと私は考えています。すなわち、人間業としてのキリスト教には極めて批判的でありつつ神業としてのキリスト教をそこから弁別し受 ??入れることには情熱を傾けた宗教家。自ら哲学者を自称しつつも、先達からの思想的影響を徹底的に忌避し続けた思想家。そういう視点こそが重要だと私には思えるのです。(だからといって、私個人は「福音伝道者」では決してない)

P.S. 永井均氏の近著「これがニーチェだ」には氏の「キリスト教観」「宗教観」が予想に反して赤裸々に頁を重ねて語られています。が、しかし、それらはおおよそにおいて赤面ものである。「青島だぁ」と言っていた人物が都知事などになってはいけなかったように、ニーチェをギャグネタにした哲学はいただけない。躁状態ノリノリの文章にはインパクトはある。しかし計算づくで受け狙いミエミエなのが残念なところである。あの軽さがどこから来るのかは言うまでもないことだと思える(98.7.3)。(^^;。


18.ウィトゲンシュタインとバートランド・ラッセル(98.7.3)

 もうかれこれ一月も前になるけれど、NHKの教育テレビでバートランド・ラッセルの生涯を伝記的に紹介した番組が流されたことがあります。ウィトゲンシュタインの伝記でつとに有名なレイ・モンクもコメンテーターとして登場していました(ずいぶんと若いということが意外でした。ちなみに私はまだ彼の伝記は読んでいません。理由は....)。ここではあえて触れないけれど、ラッセル自身の人生の紆余曲折は、特に私生活においてのそれは想像を絶するものがあったようです(^^;。

 さて、ウィトゲンシュタインとの絡みで見たせいもあり、とても驚いたことがあります。それは、ラッセルが第一次大戦に対して「反戦運動」を行い投獄されたことが契機となって、ケンブリッジの教授職を追われたのが1918年で、第二次世界大戦後、反核運動の闘志として脚光を浴びてケンブリッジに復職したのが1946年だということ。実に28年間という長い間、彼は文筆業を主とする市井の人であったということです。

 ウィトゲンシュタインがケンブリッジに戻ってきたのは1929年、そして1946年までケンブリッジで講義を持ち47年の末にはその職を辞しているわけですが、彼がケンブリッジにいた「後期」と呼ばれる間、いわばラッセルとウィトゲンシュタインは机を並べることはほとんどあり得なかったということです。さらに、ラッセルは「論考」の序文を書いたことでも知られているけれども、実際に「論考」が出版された1919年の時点ですでにラッセルはケンブリッジを離れてもいたということです。ウィトゲンシュタインのリタイアとラッセルの復職とがピッタリ重なることを考えると、何らかの確執があったのかな。とはいらぬ邪推ですが。

「反哲学的考察」より
P131 1946年
原子爆弾にたいして世論はいま、ヒステリックな不安をいだいたり、あらわしたりしている。「ついにここで効目のある手段が発明されたのだ」という合図に、その不安は近いものである。恐怖によってすくなくともなにが明らかになったのか。その手段が現実に効果をもつ苦い薬であるという印象である。「もしもここになにもよいことがないとすれば、俗物たちは叫び声をあげないだろう」と、わたしはどうしても考えてしまう。だがことによると、それもまた、子供じみた考えなのかもしれない。というのも、わたしがここで言おうとしていることは、せいぜい、つぎのようなものでしかない。つまり、「爆弾のおかげで、みにくい悪の、つまり石鹸のようにヌルヌルしていて吐き気をもよおさせる学問・科学の、終末が、破滅が、期待できるようになったのではないか」。このように考えることは、たしかに不愉快なことではない。だがしかし、「そのような破滅のあとどうなるか」はでれにもわからない。今日、爆弾製造に反論する人たちは、たしかに知識階級のあぶくである。しかしだからといって、「その人たちの忌みきらうものが賞賛にあたいする」ということが無条件に証明されたわけではない。

 この一文にラッセルの名は明示されてはいません。しかし、その46年という文脈からすれば、ウィトゲンシュタインは「ラッセル=俗物=知識階級のあぶく」と痛烈な皮肉・揶揄を露にしているとみなすことが出来るでしょう。実際、ラッセルは反核運動のさきがけとして評価・賞賛され、ケンブリッジに復職できたわけですし。それはラッセル個人にとって「よい」ことであったに違いありません。ということ。反核運動はその目的達成がどうであるか、その主義主張が正しいかどうかとは「無関係」にある種の経済効果をもたらすものです。それ故に実は反核運動とは何の関わりもない欲望の故にそこでのおこぼれ欲しさに声高める人たちがでてくる。そういう知識階級の人々が関わる学問・科学とは石鹸のようにヌルヌルで、吐き??を催す。

 長崎・広島への原爆投下の事実認識から反核運動が盛り上がった46年のその運動それ自体に、むしろソドムやゴモラを見て取る。ということなのでしょうか。反核運動に対してウィトゲンシュタインが設定した距離はそっくりそのままラッセル個人に対する距離?。そしてそれを賞賛して復帰招聘を決定した大学当局への距離なのでしょうか。かくして翌年47年、ウィトゲンシュタインはケンブリッジを去ることになります。 


19. ニーチェ(98.7.8)

反哲学的断章より(P.30)
1931年

わたしがけっして近よらない問題、わたしの軌道あるいはわたしの世界にはない問題がある。西洋の思想世界の問題。ベートーベンが(そしてことによると部分的にはゲーテが)近づき、そして格闘した問題。しかし、これまで、どの哲学者もあつかったことのない問題(ことによるとニーチェがそばを通り過ぎたかもしれないが)。そしてことによると、この問題は、西洋哲学から抜けおちているのかもしれない。つまり、西洋文化のなりゆきを叙事詩として感じとり、だからこそ、それを記述できるような人物はいないのではないか。.....

 ニーチェは久しく読み返したことがないけれど、大昔、最初に岩波文庫版の「ツァラトゥストラ」を読んだとき、あまりに面白くて上下巻を一晩で読んでしまったことを覚えています。何が面白かったというより、次の頁に何か凄い事が書かれてあるのではないかという期待感だけで読み急ぐことができたということです。が、結局「答え」には行き当たることができなかった。これは、僕の読みの浅さもあるのかもしれないけれど、たとえて言えば、「シード・プレーヤーであるにも関わらず、決勝進出出来なかった」事への裏切られ感というようなものが後読感として残った。そういうことなのだと考えます。

 ニーチェの本領は、価値観を相対化するための視座と方法論を大雑把ではあるけれど、幾つかの概念ツールを駆使して提示し得た。ということろにあるわけです。「ニヒリズム」や「ルサンチマン」とか「超人」、「力への意志」、「神は死んだ」等など。ただ、それらはどれも詩的で、精密な概念だとは思えない。論理的であるというより、恣意的な価値判断で乱高下するジェットコースターに乗っているような気分にさせられるものだということです。もちろん、それはそれで「恐いもの見たさ」的な体験をするだけの価値のあるものだということは確かなことなので、ニーチェにはそういう「戦慄への誘い」という雰囲気を感じるものだから、実に捨てがたいという感覚があります。

 ニーチェは、それらの概念ツールを拠り所にして、眼前に広がる道徳的な価値観が充満し漂う社会=世界観と延々と死闘を繰り広げたわけです。ただ思うに、彼はそこで大凡の力を使い果たしてしまったのではないか。ツァラトゥストラが結局、山の庵へ戻らざるを得なかったように、決勝戦目前で引き分けてしまって、決勝進出できなかったのではないか。本来、決勝戦で「彼」と死闘を開始するための準備として始めた自己鍛錬としての思想であったのに。

 ウィトゲンシュタインが先の引用で、ニーチェをゲーテやベートーベンと似たレベルにならべて評価しているのは、ニーチェの方法論が、基本的な部分でウィトゲンシュタインの方法論に相通ずるところがあるからです。それは、社会に根付く「思想」を相対化し社会とか頭中から引きずりだして対決対峙しようとする姿勢だと言えるでしょう。ただ、「通り過ぎてしまった」という時、ニーチェに対するウィトゲンシュタインの「棲む世界が異なる」という感じを窺うことが出来ます。ニーチェは「十字架に架けられし者」対「デュオニソス」という構図を考えるわけですが、ニーチェにおいての決勝戦はまさにその対抗図。でも、デュオニソスが対抗馬になりえるのかどうか。そもそも、このような、「構図としてだけなら「分かり???い」図式」にはまりこんで出口を無くしてしまったのではないか。と思えるところがあります。そこには、彼の出自が牧師の家庭であり、西洋古典文献学であったことの帰結によるところがあるはずです。西洋社会に根づく「道徳観」を相対化するために、ある意味で、一神教であるキリスト教によって放逐されたギリシアの古い神を持ち出すのは、イギリスの文化人のある一派がケルトの神々を持ち出すのと同じで、無意識的な民族ナショナリズムだと言えるかもしれない。日本人なら、八百万の神ないし仏教を担ぐのかも知れないし。等など。

 この点では、ウィトゲンシュタインは古きユダヤの神を持ち出すしかなくなる。しかし帯出厳禁なので沈黙をもって対峙するしかない。というのがウィトゲンシュタインの選択した方法論。方やニーチェはデュオニソスを担いでも、ソクラテスやプラトン等を敵役にするだけなら意義があったのかもしれない。けれども、何かを担いで対抗することの無意味さを知りつつも、担いだものの重さで潰れてしまったのだ。たぶん。放り投げる前にその重さから逃げれなかった。ということだ。それは、ニーチェの用いた「概念ツール」があまりにニーチェ個人の想いに依存しすぎていたから。そしていつのまにか、彼自身自分の言葉の呪縛から逃げれなくなっていた。というわけなのでしょう。たぶん。

 私にとって、ウィトゲンシュタインの思想というのは、延々と続く「決勝戦」としての思想だと思えるわけです。その点では、ニーチェの思想は、段階を踏んだトーナメント方式で、知力・体力・眼力を養い、とりあえず「社会」を相手にしながら足腰を鍛え、準備万全にっすることを第一としていたのではないか。それはニーチェの誠実さであり、純真さなのだと思えるけれども、たぶん、寄り道が遠回りになってしまい、気が付いたら抱えきれぬほどの荷物を背負っていた。のではないだろうか。


20.マルコムの振り返り(98.7.16)

 先日、ずいぶんと久しぶりに講談社新書版のウィトゲンシュタインの評伝を読み直しました。元々は法政大学出版局版から出ていた版で最初は読んだのですが、貸した本は戻らず。ということで数年前に古本屋の100円本で見つけて買いなおしたものです。マルコムの「ウィトゲンシュタイン」の評伝は1958年に出版されたもので、マルコムは1911年生まれなので47才の時の本になります。マルコムはウィトゲンシュタインの愛弟子であり、身近な人だからこそという生々しいエピソードが数多く語られているという点でこの本が必読本であることはいうまでないことです。そのマルコムの遺稿となった「ウィトゲンシュタインと宗教(邦題)」は1993年。前書から実に35年という時を経て彼の死後ピーター・ウィンチの手によって出版されたものですが、おそらくはもっともっと書き足すことがあったに違いありません。

 マルコムは前書の中で、ウィトゲンシュタインの宗教観について、

 

講談社新書 P.88

私は、ウィトゲンシュタインが宗教的信仰のようなものを持っていたとか ---事実彼はもっていなかったわけだし--- 宗教的な人間であったという印象を読者に与えようとするつもりはない。けれども、彼の中には、ある意味で宗教を肯定する可能性があったとは考えたい。自分自身はその中に入り込まなかったけれども、共感を持ち、かつ非常に関心をもっていて、宗教を「人間生活の一面」(これは『探求』の中で使った言葉であるが)として見ていたことは、たしかだと想う。.....

 このマルコムの説明から、実際にウィトゲンシュタインとの交流を通して知り得たその雰囲気が伝わってくる。そのマルコムが言う「事実彼はもっていなかった」という「宗教的信仰」とは、おそらくはとても常識的なもので、単純に言えば「日曜日に教会へ行くという習慣は持っていなかった」程の意味だろう。たしかに我々は日曜日に教会へ礼拝に出かけて行く人々を「信仰を持っている」と考えることは自然であるし、そういう行為を伴わない人々を(キリスト教という観点から)無信仰であると言うことも用語法というレベルでは正しい。しかし、後者に属するからといって信仰を持っていないとみなすのは難しい問題がある。それはマルコムが同書で述べている通りです。

 ここで思い出すべきは、ウィトゲンシュタインが「探求」の中で問題にした私的言語の問題です。「A」と名付け得る感覚はその個人の固有の感覚として保持され得るのかという問題。「探求」では例として医者の問診対象となるような「痛み」を採っているけれども、この例を「痛み」ではなく「宗教的な世界理解」というものに置き換えたらどうか。悟りは覚者に固有であり得るのか。情熱としての信仰は語り得るのか。と置き換えてみたらどうか。しかし、ウィトゲンシュタインはそういう問題の掘り起こし方とは無縁であった。「信仰」の問題が個人の内面の問題であるとされるにも関わらず、「信仰」を自らの哲学のまな板の上に直接置くようなことはしていない。にも関わらず「信仰」は私的言語の問題として十分に検討さ ??てあると読んでみてはどうか。

 マルコムは「私は宗教的人間ではない、しかし、私は如何なる問題をも宗教的な観点から見ないわけにはいかない」というウィトゲンシュタインの言葉からウィトゲンシュタインと宗教との関わりを再検討することになったと言われています。この一文にある「宗教的人間」と「宗教的な観点」という表現で用いられている「宗教」という語は同じ意味ではないのは説明するまでもないでしょう。だとしたら、ウィトゲンシュタインは世俗的宗教の「信者」ではなく、いわば汎神論的な宗教理解に近かったのでしょうか。しかし、これはどうも嘘臭い。汎神論の抽象化された「神」という概念には固有名詞を持つ神と似た嘘臭さある。それは「あなたの痛みはよくわかります」という同情が醸し出す嘘臭さに似ている。

 しかし、マルコムにおいても、どうしてウィトゲンシュタインの宗教観を晩年に至って考え直そうとしたのでしょう。これはこの一連のスレッドを書いている私の問題でもああるわけですが、少なくとも私において、ウィトゲンシュタインの宗教観は実に興味深いものなのです。ウィトゲンシュタインの哲学は信仰=情熱を保護するための鎧兜であると同時にそれはバッハのごとく「哲学の捧げ物」として書かれてあるということ。ウィトゲンシュタインの思想がもつある種の厳粛さに惹かれている。ということなのです。ニーチェとは違った意味での「祝祭」がそこにある。と言えるかもしれません。延々と続く厳かな祝典を前にすれば、だれも襟を正さざるを得ないでしょう。


21.なぜ「カラマーゾフ」なのか?(98.8.4)

 マルコムの評伝には、ウィトゲンシュタインがドストエフスキーの「カラマーゾフ」を「数え切れないほど」繰り返して読んだ。という伝え書きがある。バートリーの評伝にも、トラッテンバッハ時代に同僚に何度も「カラマーゾフ」の話しを聞かせた。という記述があります。ウィトゲンシュタインにとって、「カラマーゾフ」は特別の位置を占めていた小説であった事だけは確かな事です。「カラマーゾフ」はご存知の通り、ドストエフスキーの数ある著作の中でも最大長編であり、あれを何度も繰り返し読むのは、ドストエフスキー通でもそう易々とできるわけではありません。しかし「数えきれないほど」彼は読み返していた。

 なぜ、と問う前に、ウィトゲンシュタインの兄弟のことを考えてみよう。彼は男5人、女3人の8人兄弟の末弟であった。そして数多くの評伝が示している通り、長兄と次兄は自殺しており、すぐ上の兄パウルは第一次大戦で右腕を切断する大怪我を負っている。そしてこの事実のみが語られるだけで、そのような境遇をウィトゲンシュタインがどう感じていたのか。それを伝える記述はほとんどない。であるから、自殺した兄達をウィトゲンシュタインがどう思っていたのか。想像することしかできない。しかし、実を言えば、これを想像する事は私には不可能である。私の近親者に自殺者はいないしまして兄もいないのであるから。

1902年 長兄ハンス自殺  (13才)
1904年 次兄ルドルフ自殺 (15才)
1915年 三兄クルド自殺  (26才)

 それでも、想像力の蜘蛛の糸を結びつけるものがあるとすれば、ドストエフスキーの「カラマーゾフ」。ウィトゲンシュタインの謎多き30代の愛読書である。悪業の血に染まったカラマーゾフの兄弟達。そしてフョードルという強辣な父親が織りなすプロットを、ウィトゲンシュタインは自らの境遇に重ねて読んでいたのではないだろうか。バートリーの評伝にもある通り、ウィトゲンシュタインが「カラマーゾフ」を熱心に読んでいたのはトラッテンバッハ時代。もちろん、それ以降も繰り返して読んだのだろうけれど、第一次大戦の前線から復員してきた後、「論考」の出版の目処をつけて、遁世してしまって後。なのである。時期的には兄弟の自殺の記憶の生々しい頃だといえる。そしてこの頃のウィトゲンシュタインの書簡では ?彼が悩み事で苦しんでいたことを伝えるものが多い。これを「ホモセクシュアル」を原因としたものだ。という説があるが、本当にそうであったのか。血のつながった兄達3人の自殺によって置き去りにされた弟の想いはそんなことだけでいっぱいになってしまうのだろうか。カラマーゾフの兄弟の末弟を思い浮かべること。アリョーシャ。兄弟の誰からも因業な父親からも愛された「宗教狂い」。誰の悪口も言わず、赦す人。

 この種の話しは、おそらく、他人に話すような内容ではあるまい。しかし、なお、惜別感、罪跡感、宿命感、悲しみ、怒り、苦しみなど、諸々を生き残った者は背負わざるには居れなかったのであろう。しかも、それは発語できない言葉として。そうした発語し難い個人的な想いを抱え込んでいたウィトゲンシュタインが、ドストエフスキーに接して彼の小説に惹かれたのは理解できそうな気がする。まして、「カラマーゾフ」であれば、なおさらのことである。「カラマーゾフ」は大作であり、私の手には負えないが、カラマーゾフの主題である「親子」「兄弟」「金」「キリスト教」「聖人」「淫蕩者」「無神論」「キリスト(教)への疑念」「赦し」「癒し」といったドストエフスキーが提示したテーマにウィトゲンシュタインが?μめて熱心な親近感を持っていた事だけは確かな事だ。

 ウィトゲンシュタインが私的感覚の言語化の問題を取り上げる時、それはただ単に歯の痛みのような例で考えていたわけではない。人間が生きていく上で抱え込む悩みごとは、そうした私的言語の領域に属する。それは発語し得るが理解されがたい。ドストエフスキーの大きさはそうした悩み事をいわば「カラマーゾフ」という語に集約し細々としたプロットを用いて精緻に描き切ったことにある。ドストエフスキーの職人的小説家としての精密さはウィトゲンシュタインを満足させるものであったはずである。そして精緻なるがゆえに、のめり込めたのではないのか?

 ウィトゲンシュタインは生涯を通じて、故郷のウィーンの家族の元へ里帰りを繰り返していた。二次大戦中の数年を例外として、晩年ケンブリッヂを去った後アイルランドで「探求」の後半と格闘していた時でさえ。そして姉たちの死をも看取っている。ウィトゲンシュタインはよく「孤高の哲学者」であると言われる。なるほどそうであろう。しかし、だれよりも兄弟達を愛し想い懐かしむ人であったことだけは間違いない。そういう意味で、「カラマーゾフ」の兄弟達の会話に、彼は「失われた言葉」を見出して涙したに違いない。話をしたくても彼の兄達はすでにいなかったのだから。 


22.全ては許されている(98.9.12)

 ウィトゲンシュタインが「言語ゲーム」という基本アイデアに導かれたのは、マルコムの回想録によれば、ある日フットボールがプレイされているグラウンドのそばを通りがかったときに思い浮かんだインスピレーションによるもの。だということですが、それだけなら木からリンゴが落ちるのを見て「万有引力の法則」に思い至ったニュートンに類する印象を与えるだけで、あまり面白くない。ここでは、私なりの一つの仮説をスケッチしてみようと思います。

 ●家父長として絶対的な父親がいて、精神的にまた人生の選択を左右するような圧力が家庭内にあったこと。

 ●長兄ハンス、次兄ルドルフ、三兄クルドの3人の兄達が、おそらくルードヴィッヒにとっては「突然」という状況で自殺してしまう。このような衝撃を彼の思春期から青春期にいたる間に3度も経験させられたこと。この事件に対してなんらかの決着をつけなければならないと考えていたであろう事。

 ●若死への望みのもたげと第一次世界大戦での最前線での戦闘志願による「死」への引きずりが果たせなかったこと。若き遺書としての「論理哲学論考」。

 ●大戦後の隠遁とその中でのドストエフスキーへの傾倒。

 ●カラマーゾフ:父親殺し、人生を語り合う兄弟への憧れ。

 ●カラマーゾフ:叙事詩としての「大審問官」。[全ては許されている]というテーマ。

 ●死に値するほどの悩み。あるいは苦悩への異義と受容。

 ●ことばによって構成される自我:独我論。

 ●何を考え語るとも、言葉で全てが可能であり不可能だ。という実感。

 三人の兄を彼らの自殺によって失った弟にとって、この衝撃に対する苦悩を引き受けること。それは単に身内の不幸を引き受ける。ということに留まってはいなかったはず。自身の生と死を凝視することも意味したに違いない。一次大戦では戦車や航空機などの大量殺戮につながる兵器の出番は二次大戦ほどには多くはなかった。従って膠着した白兵戦が延々と続いたという。毎日が敵と面と向かった人間同士の殺し合い。そういう戦争の最前線での戦闘を志願し、塹壕の中で書かれた「論考」。それは(悪魔に?)死に引き寄せられるようにしてたどり着いた死の淵で書かれた哲学書であった。自らの命と引き替えにするようにして書かれた「世界とは何か」という問題への回答。そして決着させたつもりであったはずが、やはり未解?±oであることに悩まされ続ける。たぶん、そういう小学校教師としての6年間を含むケンブリッヂ復帰までの10年間。ドストエフスキーの小説は彼に大いなる慰めになったに違いない。神学に入り込まずにかといって無神論に堕さぬまま哲学に続けることの可能性をドストエフスキーから学んだのであろう。ドストエフスキーは「全ては許されている」と語る。そして後年、ルードヴィッヒもまたことばにおいて何を語ることもできる。と「言語ゲーム」について語ったのだ。私にはそう思われる。そういう結論なしに3人の兄の死を肯定することは困難だと思われる。これは対照して読むに値するように思われる。 


23.独我論は神を殺せるか?(1) (98.9.25)

 「ブレードランナー」というSF映画は今では屈指のカルト映画(人生とは何か?という問いに積極的に答えを出そうとする作品)として人気が高い。主役はハリソン・フォード演じるデッカードであるが、役の重要さという点ではルトガー・ハウワー演じるレプリカントのロイの役回りはこの主役をはるかに凌ぐ。作品の中の最大の山場は何と言っても、ロイがとタイレル社の社長と対決する場面である。ロイは自身を造った生命工学の天才を前にして今にも尽きようとしている寿命の延命策について様々に詰問する。そしてその解決策が無いと知るや、結局社長(父)を殺してしまう。この衝動をレプリカント・コンプレックスと名付けてみよう。この父親殺しの衝動(ただし、フロイトのいうエディスプス・コンプレックスとは母耀|aの存在は無関係という点が異なる)は、もちろんレプリカントだけのものではない。人間全てが同種の衝動を持つ。とまでは言い切れないが、信仰の有無に関わらず、少なくとも概念としての神を理解しつつ、神を無用であると言明する人々、「死」に対して「NO」を叩きつけたがる人々の心にはこの種のコンプレックスがあるといっていい。

 ニーチェは強度のレプリカント・コンプレックスを有する人であったと思う。牧師であった父親の早死の影響は大きいに違いない。またニーチェの発狂のきっかけは、骨を折り、持ち主に撲殺されようとしていた馬をかばって彼が大泣きしたことだと言われている。ニーチェは多感な人であり、目前の「死」に対して過敏すぎるセンスを有していたのは確かなことだと思われる。

 タイレル社の社長はロイに「限りある生を楽しむがいい」となだめすかすが、そうした言葉はロイの耳には入らない。その社長を殺すことになっても結果としてデッカードを助けるという反転に「ブレードランナー」という映画の意味がある。(ただし、エンディングについてはディックの原作とは異なるし、映画でも諸版があってそれぞれ異同があるので、定言できない。)

 レプリカントのロイがそうであったように、「神殺し」を行いたくなる衝動を私は理解できる。しかし、自覚的に神殺しを行う場合、まず神は生きていなくてはならない。また「神は死んだ」という場合でも「神が生きていた」ことが前提になる。ニーチェの複雑さはこの点にあると思う。哲学は神殺しの凶器としての出刃包丁になり得るのだろうか? 私は思うのだが、哲学で自分の神は殺せても人の神までは殺せない。

 独我論の哲学は、使いようによっては「神殺しのための凶器」となり得ると思う。しかし、どう使っても独我論では他人の神までは殺せない。他我と自我とはそれぞれ別世界に存在することを認めるのが独我論なのであるから。この意味で、独我論者が殺せる神は自身の神だけなのである。ウィトゲンシュタインの独我論では、神は「世界に現れない」のであるから、そもそも殺せない。(未完)


24.僕の人生は素晴らしかった、とみんなに伝えて下さい(98.10.18)

カラマーゾフの兄弟(新潮文庫下巻P.94)より
「あのね、コーリャ、それはそうと君はこの人生でとても不幸な人になるでしょうよ」突然どういうわけか、アリョーシャが言った。
「知ってます、知ってますとも。ほんとにあなたは何もかも前もってわかるんですね!」すぐにコーリャが相槌を打った。
「しかし、全体としての人生は、やはり祝福なさいよ。」

 ウィトゲンシュタインは死の床にて『僕の人生は素晴らしかった、とみんなに伝えて下さい』と最後に語ったと伝えられている。カラマーゾフを読み直す中でアリョーシャとコーリャのこの会話から、ウィトゲンシュタインのこの言葉が思い出された。ただ、それだけの話だといえば、それだけの話であって、ウィトゲンシュタインが死の床にあってなお、ドストエフスキーを引いた。と言うつもりはない。

 アリョーシャや、コーリャという人物像はドストエフスキーにとっての理想の写像なのであろうか? 私には少々把握しがたいところがある。アリョーシャは兄ドミトリーやイワンさらには彼らを取り巻く女性たち、その他の人々に対するナレーターを超えないように思える。浄化された視点で事実を語る。という視点から逸脱しない。ドストエフスキーの基本的なテーマである「苦悩を経て新たな生活を勝ち得ること」という意義をこの2人は自覚的に了解している。というより、いわば作家の代理人として作家の視点を体現し小説内で動き回るかのごとくである。この2人には年に差があるが、しかし良き友人たり得る。そう描かれている。しかしアリョーシャにも、コーリャにもまだ「生活」が欠如していると思える。ここに若干 ?R不足感を感じるが、それを「希望」と読み換えることでバランスがとれるのかもしれない。

 アリョーシャも、コーリャも、自分自身の苦悩と直面する以前に、他者の苦悩を前にして彼らの取り得る最大限の努力を払う。宗教者としての権威を振りかざすのではなく、人間の取り得る行為としてなし得る限りのことをしようとする。コーリャは自らのなし得る限りの努力で幼い兄弟や仲間の面倒をみる少年として描かれている。また、アリョーシャといえば、年上の兄達やその婚約者達の苦悩を目前にしてそれにとことん付き合ってしまう。

 ウィトゲンシュタインは、おそらくは、他人の「苦悩」にとても敏感な人であった。例えば、ドゥルーリーが職業の選択について誤ったのではないかという悩みを打ち明けたことに対するウィトゲンシュタインの手紙(ウィトゲンシュタインと宗教P213~216)にあるように、他人の悩み事に接した場合であっても、それを他人事に留めることなく徹底的に考え抜いて助言する労を厭わない人であった。このような姿勢の故に、彼には多くの弟子ができたのであろうし、彼の魅力の底流になっている。それは彼の哲学の基本でもあり、我々は残された著述の中にそれを感じざるを得ない。

 ウィトゲンシュタインの哲学には、確かに「独我論」が底流にある。自我の絶対的孤独性を説明し得なければ、おそらく苦悩を説明できないことによるからである。しかし、独我論は、人間の孤独が何であるのかという説明しかできない。揶揄を含めて言えば、独我論者には「良いSEX」は不可能であろう。(^^; ということがいえるかもしれない。苦悩や喜びを他者と分かち合う。という素朴な感性に、実は独我論的孤独がすでに破堤している事実が見えるのはないか。独我論的知性は、その事実を「信じる」ことでしか乗り越えれないであろう。事実である。という表現と事実であると信じる。という表現とが紙一重である妙味がそこにはある。ウィトゲンシュタインの後期の議論の収斂する点の一つはこの点にあると言える。



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