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 このページは、ウィトゲンシュタインの読者として思いついたことを備忘録的にメモするためのごく私的なページです。


1.翻訳と理解(2001/4/14)

 翻訳と理解とは類似している。とウィトゲンシュタイン(以下LWと略す)はコメントしている。

 
『ウィトゲンシュタインの講義I』勁草書房 P58 1930年

一枚の図面や一枚の写真の何枚もの複写と比較せよ。人が図面や命令を理解していることはいかに知られるであろうか。理解は別のシンボルへの翻訳によってのみ示されうる。人は従うということをしない場合でも理解していることがありうる。しかし従う場合はどうか。この場合にも、人は翻訳をしているのである--すなわち行為をシンボルに合わせることによって。かくして理解とは実は翻訳である。それは他のシンボルへの翻訳であることもあれば、行為への翻訳であることもある。

解釈は図面の内には組み込まれ得ない。図面を解釈するためのルールは図面の部分ではない。




『哲学探究』201節。大修館版ウィトゲンシュタイン全集

 われわれのパラドクスは、ルールがいかなる行動のしかたも決定できないであろうということ、なぜなら、どのような行動のしかたもルールと一致させることができるから。ということであった。その答えは、どのような行動のしかたもルールと一致させることができるのなら、矛盾させることもできる、ということであった。それゆえ、ここには、一致も矛盾も存在しないのである。

 ここに誤解があるということは、われわれがこのような思考過程の中で解釈に次ぐ解釈を行っているという事実のうちに、すでに示されている。あたかもそれぞれの解釈が、その背後にあるもう一つの解釈に思い至るようになるまで、われわれを少なくとも一瞬の間安心させてくれるかのように。言いかえれば、このことによって、われわれは、ルールの解釈ではなく、応用の場合場合に応じ、われわれが「ルールに従う」と呼び、「ルールに背く」とよぶことがらのうちにおのずから現れてくるような、ルールの把握(のしかた)が存在することを示すのである。  それゆえ、ルールに従うそれぞれの行動は解釈である、といいたくなる傾向が生ずる。しかし、ルールのある表現を別のある表現でおきかえたもののみを「解釈」と呼ぶべきであろう。
   上述の後半の引用は『探求』の有名な一節であるが、この二文を対照してみる価値はあるだろうと思う。1930年の講義ですでに『探求』の201節に連なる考えが開陳されているのは興味深い。図面のような対象の理解とルールのような規範の理解についての考察は1930年の講義においてすでになされているということだ。

   1930年のLWは、「理解」は「翻訳」に近しいとみていた。そして「理解」と「解釈」はむしろ遠いというかかなり様相を異にしているともみている。「理解」と「解釈」との峻別は『探求』では、より突っ込んで話されていると思える。

   よくよく考えると、むしろ一般的には「理解」と「解釈」の組み合わせのほうがより近しい近親関係にあるのであって、「理解」と「翻訳」とは類縁にあたるとはいえ、はるかに遠縁だと解されてはいないだろうか。ここにレトリックを感じるとはいうものの、LWは結局「理解」と「解釈」とは峻別されなければならないと言っているに過ぎないのであれば、それはすこしは判った気になれる。私はここで、確かにLWのいわんとすることをどうにかして「解釈」しようとしている。さて、それはLWを「理解」することなのである。と言ったとしよう。おそらく、LWなら、私がどのような「解釈」を書き示したとしてもそれによって自身の思想が「理解」されているとは考えないであろう。ということだ。つまり、『私の思想は解釈されることはあっても理解されない』。もしこうした表現にLW的妥当性があるのだとすれば、私とLWとの間には越えがたい断絶がある。ということを意味する。いわば「独我論的遮断」としての断絶がある。

   LW的な理解とは、ふつうの表現でいえば、「自分のことばで語る」ということだ。「自分のことばで語る」ことができたときにはじめて元の考えが「理解」された。と呼び得るということだ。もちろん「自分のことば」という表現はとても曖昧で解釈というニュアンスを含む場合もある。だが、重要なのは、理解には新たな意味は加味されないということだ。LWは「自分のことばで話す」的な「理解」のあり方に固執していた。この種のニュアンスは彼の手記をはじめ、そこかしこに見いだし得る。だから、本来「自分のことば」による表現ではありえないはずの「翻訳」が「理解」に近しいと表現には逆説的なニュアンスを感じざるを得ない。常識的には「翻訳」をするだけなら新たな意味は追加されない。解釈は「評価」としての評価者の恣意性が加味されてなされる表現である。

   さらに考えを進めて、コンテキスト(文脈)という観点からみればどうか。翻訳は全く別の文脈へ元の発語を投入することである。しかし「解釈」は元の文脈から離れては成立しない。例えば「モナリザの微笑み」の意味解釈はどのように行ってもダビンチの絵が無ければ成立しないだろう。しかし、LW的な「理解=翻訳」では全く別の微笑みを描くことが要求される。ソースとディスティネーションとなる言語がそれぞれ異なる胃言語間の「翻訳」であれば、言語の違いによって文脈は自然と切断される。ドイツ語でものを考え英語で講義をせざるを得ない状況にあったLWにおいて、毎度のごとく独英翻訳を強いられる講義とは、まさに理解そのものが問われる発語の現場であったに違いない。


   枕話が長くなってしまった。実は、最近の書き記しの中で、『論考』の第7節の翻訳についての訳語の扱いを再検討したのだが、sagenとsprechenの訳語の扱いに関して幾ばくか疑義を持つに至り個人的に実はとても驚いている。この愕然としたという感覚は、LWを読み始めて20年以上経過してなお、常識に近い理解の前提が突然あやふやになってしまったという不安定な感じが原因している。たとえるなら、双六ゲームで突然「振り出し」に戻されてしまった。という感じなのだ。

   実を言えば、このことに関する予感はずいぶん前からあった。それはLWは決してロゴス的な哲学者ではなく、非ロゴスというか反ロゴスというか、とにかく、ある種の特異性(それはヘブライ的といえる)を強烈にもっている。その特異性に引きずられつつ彼の著作を読むことには何かスッキリとしない咀嚼不全さが長年、常につきまとっていた。また、ロゴス的素養の持ち主の解説は(一読でそれとわかるが)、どうにもしっくりとこないもを感じていた。つまり彼らが彼ら的に訳せば彼ら的な訳にしかならないということであったのだ。もちろん、彼の理解は彼のものである。訳者の理解(翻訳)は訳者のものである。 

 個人的な感想があるとすれば、LWは決して分かり難い思想家ではない。と思える。というのは、彼はある種の完全主義者であるから思想を縦貫する縦糸がきっちり見えれば全体をスッキリ見通せるはずだからである。彼が提起した言葉の問題は数多いが、それらの具体的な問題はたとえて言えば縦糸に対して時を追って織り込まれた横糸にすぎない。もちろん織り込まれた布地は大きくその模様は精細だ。ウィトゲンシュタインとはそういう類の思想家だと思える。もちろん、LWが格闘していた「ことばの問題」は複雑怪奇極まりないであろう。しかし、LWのことばの問題に対する戦術としての哲学的手法それ自体は実はとても単純なのだという見通しがある。
  この意味で、LWの哲学的手法と、彼が論じていた「ことばの問題」とはいったん切り離して考えるほうが経済的だと思える。巷の解説書の多くはこの点をごっちゃにしている。具体的なことばの問題をあげて、その問題をLW的に理解するとこれこれであるという議論形式が典型的だ。そしてこの種の形式議論の積み上げで構成された解説書は数多い。もちろん、それはそれで意味があるだろう。だけれども、それらの解説書を読む度に思うことがあるとすれば、僕的には地図もなく森に放り出されたような後読感しか残らないということだ。どんなに木を見つめても森は見えないのだ(目が悪いから?)。後期のLWは結局、脱稿済みとも言えそうな『探求』でさえ出版してはいない。一部の手記を除いて遺稿管理者にすべてを託している。彼は地図を書かなかったのか、書けなかったのか。ダ・ビンチが『モナリザ』を終生手元に置いて書き足しをしていたことにそれは似ているのかもしれない。最後まで手を入れなければならないという責務にも似た感覚が脱稿を阻んだのだ。おそらく。

   私の関心は、比喩的に言えば、LWの思想を縦貫する縦糸を明瞭に見据える。というところにある。この縦糸が明瞭であれば、様々な「ことばの問題」について彼がどのように対処するかは、原著書を読まずとも推測がつく。はずである。だから、そこからは精確さをもって精読できるはずでもある。つまり検証的に精読できるはずなのである。うーむ。しかしこれはなんたる横柄な物言いであろう事か。

   LWを精読する。ということは、僕的には検証的に読む。ということなのだが、これまでは、その精読はおおよそ大修館版の全集本をリファレンスとしていれば十分でドイツ語で書かれた原書までリファレンスする必要はないと考えていた。しかし、そうも言っておられないかな。と慌てざるを得ないのが現状である。ここには大きな問題がいくつもある。今頃になって、といった時間的なことがまずある。だけれどそれはいたしかたがない。読書の速度が落ちること。これもしかたがない。というか、それはそれで楽しみが増したというべきか。実のところ一番おおきな問題があるとすれば、結局、私には私流の恣意的理解しかできないであろう。ということだ。今後、理解が進めば進むほど、理解には恣意性や歪みが増して、まっとうさを逸してしまうのではないか?そう思えて仕方がないのである。これは杞憂であろうか。

   LWの思想を理解することは、私的にはとても価値があることだ。つまり、『翻訳のための..』といった本業まがいの仕事が片方にあるので、いわば基礎学習・研究として具体的に役立っている。まさに上述引用のごとく、LWあるいは「ことば」に関する「理解」をWWW上で形を変えて表現する機会があるし、それに楽しみさえ感じている。翻って言えば、ここの駄文群はその意味では安物の解釈であるに過ぎない。LWとその著述とその周辺がなければ全く無意味な文字列だ。

   僕自身はいつも恣意性のことを気にしている。これは父親譲りの性癖かもしれない。恣意的理解の表現にじつは恣意性がない。と偽装させるレトリックには様々なパターンがある。事実のみを記すこと。そう。事実には恣意性がない。とは裁判所の言語ゲームの特徴? しかしながら、どの事実を拾ってどのように並べるか。という「文体」と事実命題の成立段階で実は恣意性は十分表現可能だ。翻訳での訳語の選択もその一つだ。この意味で、訳語の選択とは訳者の強権発動でしかない。等々。

   恣意性の表出が避け得ないのであれば、恣意性の表出に賭けてしまう。という開き直りもあるであろう。ただし、その種の前例をあまた見るに、拙劣であることを免れ得ない。

   絶対に公約するわけにはいかないが、一つのアイデアとして『ウィトゲンシュタイン独英和辞書』みたいなものを考えている。もちろんこの場合、英語は対応できればベターであるけれど、必須ではない。要は独和辞書なのであるが、例文をすべてLWの著述から採る。というもの。訳文を和書から採るわけにはいかないので、訳文は無しあるいは、拙訳を添付する程度のもの。たとえば、sagenで引けば、その語を含む命題がリストされるようなもの。ただ、まぁ、なんというか、ドイツ語の入力はたいへんであるし、データベース構造も、単文と節、さらに関連節文などまでを考慮すると単純ではない。こんなこと、やる意味はあるのだろうか? それにそもそもそういうことはベルゲン大とかでもすでにやられていることであろうはずだし。ただ、LWベースの独和辞典は必要だと思っている。というか、その必要性に迫られている。せめて全集が独日対訳形式だったらよかったのに。と思うのだけれども。  
2.グリフ(2001/4/20)

   僕に「グリフ」という概念を教えてくれたのは、Apple Macintoshの漢字Talk1.0の設計開発に関わったダン・ストライピさんだ。ある開発で一緒に仕事をした際に、グリフとは文字形象そのもので、単純に言えば、マルチフォント・システムが表示し得るフォントのすべてとさらには、亀甲文字や古文書上のマニュスクリプト等々、文字として認識され得るすべてを含む概念であると教えてくれた。

   ことばの問題を考えるときに、たとえば、チェスとの対比を比喩的に用いるのであれば、駒を動かすルールはことばを操る際のルールに対比できる。ところが、このグリフという概念はむしろ、何を駒として用いるか。という駒の選定のルールに関わる。駒の選定以前に、何が駒であるべきか、というゲームの設計フェーズというものが存在するかのごとき印象がある。しかし、発生論的には、駒の選定とゲームの複雑化は同時進行的であったのではないか。LWの議論は駒の選定、配置、動かし方、勝敗、ルール逸脱、裁定。など、ゲームとしての言語ゲームの側面のどれに対しても重厚な考察がある。のだろうか。必ずしもそうではない。というのが私の見通しである。というのも、「言語ゲーム」という考え方は「概念」ではなく、「比喩」的な何かであるはずだから。


3.ウィトゲンシュタインの位置(2001/4/23)

   ウィトゲンシュタインは、西洋哲学史の中の「何処」にいるのか。私感を簡単に言えば、

 「ユダヤ教 => キリスト教 => アウグスティヌス => ドストエフスキー/キルケゴール => フレーゲ/ラッセル => ウィトゲンシュタイン」

   中世「スコラ哲学」が問題とした「普遍論争」。この普遍論争の基盤には、「語り得ぬものも「語り得ぬもの」として語り得る」というアウグスティヌスのパラドキシカルな指摘の論理的解決を目指す志向があると思われる。アリストテレスの論理学が復興したのはトマス・アクィナス以降である。

   『論考』は見ようによっては、それら中世的「普遍論争」の終極的解決を果たしている。といえなくもない。『論考』がなければ、W.オッカムの名前などだれも思い出しもしなかったであろう。

   「アウグスティヌス」はLWにとっては重要な位置を占めていると思う。それは、アウグスティヌスの「言語論」的な思想が、アウグスティヌスの全人格的な思想(回心を含む)に関わっていること、ある意味で非ギリシア的(ヘブライ的)であること、哲学と宗教との分離を重要視するという視点があること。この種の回心は独我論的な「認識による自己自身の救済」の否定(ナンセンス化)の衝動(エネルギー)に関わっている。

   財産の放棄。LWを際立たせて有名にした美談のひとつ。マタイ伝19章16-22。『もしもあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人に施しをしなさい。そうすれば天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい。』このことばを文字通り実行することは難しいことだ。LWの以前で同様な事跡で有名なのはアシジの聖フランチェスコ(映画、『ブラザーサン・シスタームーン』)。ドストエフスキーの賭博好きは同様の効果をドストエフスキーにもたらしたはず。


4.ヨーリック・スマイシーズ(2001/5/30)

 レイ・モンクの評伝では、スマイシーズなる人物は「謎の人」として扱われている。同書によれば、彼は、ノーマン・マルコムとほぼ同時期(1930年代後半)の学生の一人で、ケンブリッジ卒業後には、オックスフォードの図書館司書となったが、哲学は捨てず、卒業後もLWのよき友人として行動を共にすることがあった。例えば、戯曲の翻訳や、映画館への同行、様々な読書会など。そして1951年にケンブリッジのベバン博士宅で、ウィトゲンシュタインの死をアンスコムとリースと三人で看取っている。ところがLWの死後は、精神を患った伝えられている。精神科医となったドゥルーリーの患者となり、1981年にはパラノイアとなって死去したという。ちなみに、ドゥルーリーが没したのは1976年で彼の死の5年ほど前のことだ。著書の類は特に無いが、彼のノートは、マルコムのノート等と一緒に編集・出版されている(翻訳はされていない)このノートは「自由意志についての講義(Lectures on Freedom of the Will )」このようなテーマは時代的背景とスマイシーズのような真摯な学生が聞き手にいたということがきっかけかもしれない。

   スマシーズはアンスコム同様、カトリック信者として受洗している。ブースマの『Conversation 1949 - 1951』という小冊子には、たびたびスマイシーズについての記述がある。編集者のコメントに、同書を出版するに際して、スマイシーズに原稿を見せたとある。ブースマの記録は手稿でしかないため、あるコメントがブースマ自身のコメントであるか、LWの発言であるのか、その判別が容易でない。そこでスマイシーズが原稿を見て、クォーテーション・マークを挿入し、彼の判る範囲で、発言者を特定したとある。また、その原稿を読んだスマイシーズは非常に「struck」された。というコメントもある。ニュアンス的には落ち込んだ、あるいは、衝撃を受けた。というところか。実は、同小冊子は1986年の出版であるから、スマイシーズが原稿を読んだのは彼の死の直前ではなかったろうかと思われる。ブースマの手稿が『また、ブースマとスマイシーズと三人で話し合おう』という言葉で終わっていることを知ったこともあるだろう。哀しい話だ。

   ずいぶん前に読んだグレーリングの解説本(翻訳書)には、LWの功罪として、彼が身近な優秀な学生に対して、学者となることを断念させる指導によって、実際何人もの学生が、アカデミックな世界と無縁となったことを批判するような一文があった。確かにそれもひとつの観点としては正しいかもしれない。LWは米国滞在中に、ブースマと話をした際に、『スマイシーズはシリアスな人間だから、教職に就くことはないだろう。』とも語っている。うーむ。LWが学生に求めたことの一つとして、全人格的に自らの人生に対して真剣でありつづけること。という生活態度があった。まったく、いうは易い。求めるのも易い。しかし、そうあり続けるのはそれこそ、駱駝が針の穴を通るくらいに難しい。

 
5.解説書は読むに値するか?(2001/7/16)

   最近、神保町を歩いてLWに関する解説書(和本)を何冊か入手した。それだけでなく、Amazonからも洋書数冊。ざっと斜め読みしたいところだが、どうにも時間がない。この時間のなさには2種類ある。ひとつは、単純に暇がないこと。もう一つは、そういう読書に時間を割くだけの意義があるのか疑問であること。前者は単なる言い訳だから本当は書くまでもないことだ。後者は我ながら鼻持ちならない言い訳である。だったらそもそも本なぞ買わなければよろし。書誌項目を増やすだけのためのコレクションなぞ、そもそも愚の骨頂である。

   LWの解説書の何冊かに共通している言い回しがある。「私はウィトゲンシュタインの信徒でない」という表現がその一つだ。こういう表現は無用だと思える。第一に、自身をLWの信徒である。と考えている者など一人もいないであろうこと。導師と弟子、そしてその周辺をとりまくファナティックな信奉者達。という図式はそこにある。と考えられがちだとしてもである。

   私がLWの解説書にいくばくかでも関心を持ち得るのは、それらの本を読むことでLWの思想をより深く知りたい。と考えているわけではない。そうではないのである。むしろ、解説書を書いた専門家達がどのような理解と視野をもっているのか。という点に興味があるからなのである。ある種のドキュメント入手可能環境というホメオシタスの中で、どの程度バリエーションがありえるのか。LWの遺稿に関する伝言ゲームがどのような展開となっているのか。そういうところに興味がある。

   しかしながら、結局、哲学の専門家が書いたLWに関する解説書は、おおよそ、読むに耐えないと思える。それは、ここの駄文も同様で、書き手の思考フレームの枠をはみ出さないからだ。(私を含めて)彼らはLWを捕捉しているであろうか? 理解することと解釈することとは違うであろう。ましてや、単なる解釈でさえ、ある閾値の範囲内で収まってはいないか。このスレッショルドの値幅にはそれぞれ類似がある。そして結局、よってたかって、皆が皆、自身の世界の中に収まるLW像を描く事に終始している。

   99%の著述は結局、書き手の世界を超えない。さらにいえば、それだけでなく、読み手の世界を超えることさえない。 





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