Home 『論理哲学論考』について ウィトゲンシュタインとマルガリート・レスピンガー:恋愛と後期思想  ウィトゲンシュタインとドストエフスキー  『倫理学講話』(1929-1930)について  ウィトゲンシュタイン on YouTube

『論理哲学論考』について


  1. 「論考」に掲げられた鍵(98.1.23)(98.5.10.改版)

  2.  最初に「論考」を読んだとき、論理学の本でありながら随分と神学的な言い切りがあるな。という印象を受けました。その後何時だったか、論考の大見出しを拾ってみると、大見出しの節句それ自体は大見出しに本当にふさわしいのか。章と節に分節されたいわゆる大著の類に比して、それらの節句は章頭を飾るには役不足な感じを受け不思議さを覚えたものです。むしろ7つの節句には連続性が見て取れる。しかしなお、それらの7つの節句は相互に注釈し合う関係にはない。そこでふと思い浮かんだのが旧約の創世記。実はこの「論考」の番号付けは気がつけばとても分かり易いウィトゲンシュタインの暗号の解読キーなのではないか。今ではそう考えるに到っています。

    【論考】
    1. 世界は成立していることがらの全体である。
    2. 与えられたことがら、すなわち事実とは、いくつかの事態の成立にほかならぬ。
    3. 事実の論理的映像が思考である。
    4. 思考とは意味をもつ命題のことである。
    5. 命題は、要素命題の真理関数である。
    6. 真理関数の一般的形式 .....これは命題の一般的形式である。
    7. 語りえぬものについては、沈黙しなければならない。

    【旧約聖書:創世記】
    1. 初めに、神は天地を創造された.....
    2. 神は言われた「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」....
    3. 神は言われた「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いたところが現れよ。」....
    4. 神は言われた「天の大空に光るものがあって、昼と夜を分け、季節の印、日や
      年のしるしとなれ。天の大空に光るものがあって、地を照らせ。」....
    5. 神は言われた「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」
     ....「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」
    6. 神は言われた「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣を
    それぞれに産み出せ。」....
    7. 天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に
    神はご自分の仕事を離れ、安息なさった。....

    こう対比対照してみると、「論考」の骨格はまさしく、旧約聖書の創世記の天地創造の「神話」のアナロジーとして組み立てられていると私には読めるのです。概念的に抽象化してまとめると

    1. 全体としての「世界」定義
    2. 世界を構成する単位要素
    3. 世界が構成される場の定義
    4. 意味成立の根源
    5. 要素相互の関係と連続の定義
    6. 拡張される連続・関係性、演繹と外延への拡張。自我(人間)。
    7. 完了

    この相似性の特徴付けには問題がありますが、私の語彙力に問題があるので仕方ありません。(;_;)。おそらく、「論考」の突端は7で、これが着想の最初にあって、1が次、そして2~6は聖書の解釈を論理学的に反映させた後付けなのではないか。そんな過程で書かれたのじゃないかと想像してます。大修館版の全集には入っていませんが、「論考」には2種類あるといわれています。初期版(Proto-Logicophilosophicus)と決定稿とでは内容的には95%以上が同一で、修正個所は、細かな語彙の入れ替えと文章の依存関係の並べ替えが行われた程度。だそうです。ただ、この入れ替えがどの程度なされたものであるのか。入れ替えの意図がどこにあったのか。想像するに、このアナロジーの補強がその並べ替えの動機になっていたのではないか。と。

     ウィトゲンシュタインの独我論は5のコメント、神秘主義的な節句が頻出するのは6のコメントに集中しています。創世記で生物が創造されるのが5日目。人間が創り出されるのは6日目のことです。この対照。天地創造の神話は、天体物理学的な「宇宙創世」の「神話」として受け取られるのが普通ですが、独我論という観点から言えば、「わたし自身」という内的宇宙の「創世記」として読み得るのではないか。この意味で、「論考」はウィトゲンシュタインの「創世記」に対する哲学的な解釈だとも言えるのです。神学に踏み込まない哲学。その一線を論理学の内側に踏みとどまって書かれたのが「論考」なのだ。という見方ができるのです。

     ユダヤ思想での「安息日=7」へのこだわりは、現在でも強固な民族的なアイデンティティを示すものとされていますが、その7日目の意味は「創世記」における7日目。という意味だけでなく、モーゼに率いられた出エジプトを完了した日。という意味も含まれている。のだそうです。つまりは隷属からの解放記念日。という意味もある。ウィトゲンシュタインの「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」という有名な節句への番号付けが7であり、さらにこの句だけには7.1....等といったコメントが全くないことを考えると、この節句には、節句が言う意味以上の旧約的なシンボリックな意味が付与されていると解することに不自然さは全くないと思えます。

     「論考」の文体に比して、「探求」または後期のウィトゲンシュタインの文体では、「○○という場合を考えて見よ、ここでは、○○だが、それは実は◎◎なのだ」という文体が頻繁に見られます。文体的に俯瞰すれば、これは、新約の福音書のイエスの語りにとてもよく似ている。

    マタイ伝13章13節
      わたしが彼らに「たとえ」で話すのは,彼らは見てはいるが見ず,聞いてはいるが聞かず,また,悟ることもしないからです。

     アナロジーの翼で飛躍して言えば、「旧約」=「論考」←→「新約」=「探求」という類比が出来るかもしれません。

    (法政大学出版局版「論理哲学論考」所収の「哲学探求」の『原著者による序文』より(217~218))
    「そのとき、【突然】、旧著の思想と新しい思想を一緒にして公刊すべきではないか、新しい思想は、わたくしの古い思想との対比によってのみ、またその背景の下でのみ、その正当な照明がうけられるのではないか、と思ったのである。」

     いずれにせよ、いわゆる「前期」から「後期」への転換が問題にされるウィトゲンシュタインの思想的変遷ですが、僕はむしろ何が持ち越され何が批判されていたのか。特に連続している部分が何であるのかが問題のような気がしています。
     彼自身は哲学的な著作上では自らの宗教観を語ることはほとんどありませんでした。しかしその哲学的営為の背後で実は旧約世界と新約世界の連続性と断絶点とをウィトゲンシュタインは彼なりにバックボーンとして考え続けていた。そんな感じを受けるわけです。でもこの領域は人それぞれ内面の問題として抱えていればいいことです。自らの理論として公開し例えば聖書聖典の正当性を論証してみせる必要は...ないのでしょう。


  3. 論理哲学論考 -1- 唯名論 (2011/7/7)

  4. LWの「論理哲学論考」が傑出した哲学書であることは万人が認めるところだと思う。しかし「論考」はいわゆる哲学入門書の類ではない。また、「~とは何か?」というような提起問題を解き明かす。といった哲学的概念の解説書でもない。教科書でもない。それは哲学的思考の大枠を論理的体系的に記述すること。つまり「哲学」それ自体を論理的に構造化することで、哲学的問題の一切合財を全て一括して解決することが意図された野心的な書物だと私には思える。

    わたくし的に「論考」の理解の深化があったとすれば、いわゆる「普遍論争」と呼ばれる中世以来の哲学問題およびその展開継承とを対比対照することが重要であった。「普遍」あるいはそれに類した形而上学的・超越論的な「語」を有意とする考え方にはおおよそ三つの視点がある。第一の立場は実体として実在するという実在論の立場。ギリシア哲学・プラトニズムはその代表的な例。もう一つは、「普遍」という語は単なる文字形象と音声によって発語し得る「語」あるいは「名辞」であるとする唯名論の立場。もう一つは、事実的な理解の抽象として表出され名付けられた「概念」であるとする概念論の立場。実在論であれば、それ(普遍)は論を待たず実在する。概念論であれば、概念定義が問題解決の要である。唯名論では、語の使用者において語を使用が有意義だとしても語は指し示しに留まる。実在論者の主たる哲学問題は「存在論」である。概念論者は「概念定義」に努力を傾け、唯名論者は「語の使用」を議論の中心に据える。これらの特徴により、ある哲学者、哲学議論がどのような立場によるのかは容易に判別し得る。

    「論考」の言語論は、この「実在論」「概念論」「唯名論」三区分で言えば「唯名論」に近い。哲学史的に唯名論者とされているのは、「オッカムのウィリアム」で、「論考」の3.328に以下のような指摘がある。
    3.328 「使用されない」記号は意義を欠く。これがオッカムのカミソリの真意である。
    (すべての状況から推して、一つの記号に意義があるかのように思えるならば、その記号はじっさいまた意義をもつ。)
    オッカム、そして「オッカムのカミソリ」は LWにとっては希有な哲学者、引用例の一つ。使用された「オッカムのカミソリ」という語はたぶん特別の意義がある。それは「論考」が「唯名論」に近い論理であること。それは同時に「沈黙」によって「使用されない」語は意義を持たない。という7節の結語さえ暗示しているのである。

    「論考」はこの唯名論的な立場、すなわち記号操作に依って以下のように全論展開される。この展開は以前に書いたように旧約聖書の創世記の最初の7日間のアナロジーでもあると思う。

    世界(1)→ 事態・対象(2)→ 名辞・命題(3)→ 思考(4)→ 論理的演繹・推論(5)→ 論理(6) → 沈黙への配慮(7)

    この唯名論的な記号(語)操作の考えは後期においても、ルールに基づく語の使用すなわち「言語ゲーム」として一貫した哲学的立場であり続けたと私には思える。もちろん、LWが「語り得ぬモノ」を重要視していたことは言うまでもない。しかし、手記手稿日記は別としても、彼の「哲学的」著作において、「語り得ぬモノ」は依然として「語り得ぬモノ」であり続けた。その意味で彼は、実在論者でも概念論者でもなく、名辞と命題による唯名論的記述者の立場をずっと維持し続けた。と思われるのである。

    ちなみに、唯名論は英語で "nominalism"。ウィトゲンシュタインと唯名論の関係を論じた日本語の文献はとても稀であるが、英語圏ではよく見られる。Google検索で" Wittgenstein nominalism"で調べれば関連頁を多数見いだせるであろう。

      
    論理哲学論考


  5. 論理哲学論考 -2- 独我論 ~実在論と唯名論の調停~ (2011/7/8)

  6. 「論理哲学論考」を最小努力で理解する方法は、LW自身が書いた序文と結語である7節とを併せ読むことである。これは「論考」 の出版編集者であったフォン・フィッカー宛の書簡にも書かれているLW本人の推奨手順でもある。

    本書の核心はほぼ次のような言葉で捉えることができるであろう。
    おおよそ言い(sagen)うるものは明瞭に言いえ、語り(raden)えざるものについては沈黙せねばならない。


    論理哲学論考 序文

    要素命題の真理函数(5)の繰り返し演繹の結果がわたくしの世界。しかるに「 5.6 わたくしの言語の限界が。わたくしの世界の限界を意味する。」という5.6節とその注釈群が「独我論」と呼ばれている。わたくしの世界には記述された事実の命題群が集合として充満する。そして命題を構成する「論理」もまた充満する。しかるに「私=世界」からこれら充満を徹底的に解放削除すると、

    5.64 ここにおいて、独我論を徹底すれば、純粋の実在論に合致することがわかる。独我論の自我は延長をもたぬ点へと萎縮し、残るものはそれに対応していた実在のみとなる。

    論理哲学論考

    LWの独我論とは、唯名論的な要素命題の真理函数演繹の繰り返しの結果、事実命題の集合として「世界」が「私」として立ち顕れる超越論的論理であろう。つまり、LWの独我論は唯名論的命題操作が行われる哲学的自我において成立する。さてその「自我」とはたとえて言えばコルク板で出来たクリップボードのようなもの。そのコルク板に事実理解を書き記したポストイット紙を貼り付けれる限りを貼り付けた今の状態が私であり世界。この考えが重要だと思える理由があるとすれば、「自我」は延長を持たぬ点のような実在とはいえ、貼り板無しでポストイット紙を貼り付けることはできないように、独我論的自我無しで世界は顕れない。LWの唯名論的論理学では、事実として指し示され得ず話せない形而上学的で実在論的記述は無意味として排除されるが、自我が非存在ならそもそも唯名論は成立しない。ということも同時に示される。この「実在自我」という一点で「唯名論」と「実在論」が結合・交錯するという指摘がLWの独我論の重要な点であると思える。ただし実在論者に哲学的な出番はほどんど与えられ得ない。宗教などが代替地となるであろう。また唯名論者には語るべき領域が大いに与えられるが、その語りの基盤は与えられない。ウィトゲンシュタインが理念として描く「哲学」はこのように実に寒々とした言語操作だけが跋扈する領域なのであろう。

    しかし、この「実在自我」という一点の故に、唯名論と実在論は敵対相反するものではないことが示される。しかるに「普遍論争」のような「唯名論」 v.s. 「実在論」の論争はこの一点で調停され終息し得るのである。ハレルヤ!

      
    論理哲学論考


  7. 論理哲学論考 -3- 実在論 ~語り得ぬもの~ (2011/7/9)

  8. 「論考」は「語り得ぬもの」を「語り得ぬもの」として文言上とはいえ指し示すことで、またLW自身「論考」7節の結語を最重要と断言していることもあって、LWの哲学は形而上学に近しいといった評価に根拠を与えている。ここで注意しなければならない点は、この「語り(sprechen)得ぬもの」についての7節の結語は、実在論云々ではなく、「語り得ぬ事柄」を話そうとする話者の行為に対するコメントである。LWは論理学的・唯名論的な語の使用についてのみ語っている。彼は「論考」7節においても、話者の言語行為とその「発話」を指し示しているだけだということである。「語り得ぬもの」という語が何らかの実在を指し示している。と理解したいと思うところがあってもそれは留保した方がよい。アウグスティヌスはこの「発話者の発語行為」と「語が指し示す対象」とをきちんと切り分けて考えていた。LWはこのアウグスティヌスに大いに感化を受けた弟子の一人だとみなせる。
    『キリスト教の教え』第一巻第六章 『アウグスティヌス著作集6』33-34頁 教文館

     いったいわれわれは今神についてなにかを言ったのであろうか。なにか神にふさわしいことを音声に表したのであろうか。いやむしろ言おうと思っただけだと感じているにすぎない。たとい言ったとしてもそれはもともと私が言おうとしたことではない。神が言い表せないからこそ言おうと思ったことをいえないのである。だからもし神が言い表せないとすれば、私が何かを言ったとしても何かが言われたことにはならない。
     しかし神は言い表せないと言われる時、すでになにかあることが言われているのであるから、まさにこの故に神は言い表せないと言ってはならない。そしてここになぜか、形容矛盾が生じる。というのはもしも言い表すことができないものが、「言い表せない」と言われるとしたら、すくなくとも言い表すことができないと言うことができるのだから言い表せないのではない。こういう形容矛盾は、ことばで鎮まらせるよりも黙って通り過ぎる方がよい。
     それにもかかわらず神について何一つふさわしいことを述べることができないのに、神は人間の声によって神に仕えることをお認めになり、われわれの言葉でもってわれわれが神を讃えて歓喜することを望まれた。まさにこういう理由で、神はデウス(Deus)と呼ばれることを許された。この De-us という二つの音節の響きで神自身が真の本質において認識されるのではない。しかしそれでもこの音声がラテン語を使うすべての人々の耳を打つとき、彼らを動かしてあるもっとも卓越したしかも死ぬことのない本性を思索させるのである。

    「論理哲学論考」は「論理学」を用いた「哲学体系」である。それは「哲学原論」であって「哲学それ自体」の論理学的体系記述である。”Tractatus Logico-Philosophicus ”「論理学的な哲学の論考」。だからそれは「言語一般に関する哲学」としての「言語哲学」ではない。日常会話や宗教的な信仰告白、文学・詩学等の創作など、非哲学的な言語行為は「論考」の論外に位置する。もしそうした日常的な言語行為や創作的な言語行為もまた「論考」の射程内に位置するとしたら、例えば「スターウォーズ・サーガ」みたいな作り話は物語それ自体に対応する「事実」が(制作裏話は除くとして…)無いのであるから、「論考」の写像理論に依れば、それら作り話の物語の全てが無意味と判断される得るであろう。しかし、そんな断定は荒唐無稽レベルの誤解だと言える。「語り得ぬもの」にそれら「おとぎ話的」創作は含まれない。だから「スターウォーズ」は「神秘」でも何でもない。

    「論考」においては、「哲学」は事実記述され得ないような事柄に対する言及は無意味であるから、そのような言及は差し控えることが妥当とされる。また言及したとしても、そのような「語り得ぬことがら」への言及は「論考」哲学においては無意味である。ということで、実在論や形而上学、宗教学的独白などは、哲学の枠外で話し得る何か。ということとして「論考」的哲学の守備範囲から放逐される。ただし独我論が自我という基底で実在論と一致・交錯する指摘はしているものの、フレーゲやラッセルらの実在論的論理学については批判的である。ここでは詳論しないが、簡単に言えば、実在論はおおよそにおいて写像論理・事実叙述主義に反するが故に真偽判断の範囲外だから放置(pass over)なのである。この点でLWを形而上学者であるとか実在論者であるとか断ずることには無理があると思う。

    しかしながら、この「論考」的な哲学体系では、言及が不十分であったり、また語り得ぬがゆえに黙してしまうことでかえって議論を不十分にしてしまったところがあるのではないか。特に「概念」の取り扱いはその一つであろうと思える。


  9. 論理哲学論考 -4- 概念論 ~概念定義の妥当性とトートロジーによる論理の跳躍~ (2011/7/14)

  10.  「普遍論争」の論理を「実在論」「概念論」「唯名論」と三区分し対照すると「普遍」把握の三様態の相違点・差異を簡略的にではあるが、わかり易く表現できると思える。すなわち、

     1.実在論:普遍性は事物の存在成立の「前」にいわば「イデア」としてア・プリオリに存在する。
     2.概念論:普遍性は事物と共に事物の「中」に属性・性質として存在する。それは定義可能で言語化し表象される。
     3.唯名論:普遍性は事物の認識の「後」に我々が属性・性質として名指し呼称する命題表現として機能する。
       
      この「前」「仲」「後」という三区分は典型的ではあるが、あくまで簡略略式な表現で、いずれかの立場に限定的に固執した論者は少ない。むしろ重みの片寄りがあって、どちらかといえば唯名論者、あえて言えば実在論者。という二股三股またぎの立場であるほうが多いであろう。

    「論考」のLWの基本は唯名論。ただし世界の基盤である自我(主体)に限って実在論の余地を認めている。 LWに限らず思想史上の哲学者がどのような重み配分で哲学をしていたのか。それは思想史的で歴史学的な文献学の範疇内で整理集約することが可能ではあると思うが、少なくとも私は職業哲学者ではない。という言い訳を名文としてあえてそうした試みをしようとは考えない。ここでは、概念論が、実在論と唯名論との中間に位置するという思想史的区分が片方にあるだけでなく、哲学は概念という思考手順と無縁でなく、概念を用いるが故に様々な困難や誤謬や理解不足などを内在させ得ることを示すことが重要だろうと思う。

    「論理哲学論考」には「定義」が無い。あるのはただ「注釈」だけである。実に「特異」な構成である。かの番号付けの文体はその注釈の位置関係を明瞭にするための技法である。語や表現に定義が無い。ということは、そこでは概念語は用いられていない。と考えることができる。LWの師の一人であるフレーゲは「論考」を贈呈され一読し「語の定義もなく論が展開されている」という点を返信の手紙で指摘し、いわば「論外」として読み込みを行わなかったらしい。と伝えられている。ウィトゲンシュタインの返信は残っていないのでこの語の定義についてどのように返事を書いたかは事実として不明ではあるが、おおよそ、次のように考えることができるであろう。

     「論考」において、「論理」に関する語、名辞、命題はすべて「同語反復」すなわちトートロジーなのである。であるから定義は不要である。それと同時に無意味でもある。同語反復なトートロジーであるがゆえに反駁も異議申し立ても不能である。しかるに、この同語反復命題による「論理」によって構成されるがゆえに「論理哲学論考」は序文において「究極的に問題を解決した」と宣言されるのである。
    6.1 論理の命題はすべて同語反復命題である。  (論理哲学論考)

    この「同語反復の理論」というアイデアは、草稿1914-1916の中ですでに記されている。
    1914年10月19日
    世界を命題が記述するのが可能だ、ということは専ら、命題によって指示されるものは命題自身の記号ではない、ということによっているのだ! 適用--。
    「いかにして純粋数学は可能か」というカントの問いに対しての同語反復の理論による照明!
    世界の構成は何らかの「名を挙げず」に記述できなければならない。ということは自明である。

    このLWの「論理」は識者の間では「語り得ないことがら」の一つとして取り上げられる。LW的神秘主義の構成要素とみなされてもいる。しかし、それは一面な見方・捉え方であると思える。仮にある言明の「論理」をそれなりに定義解説したとしても、厳密にその定義解説が有する「論理」の定義解説しなければ完結しない。そしてその副次的な定義解説にはさらなる定義解説が必要である。そしてその再定義再解説は入れ子のように延々と終わり無く続く。しかるに「論理」は定義できず、どこか途中で中断されるであろう「注釈」としてだけ可能である。 以上の観点から、「論理哲学論考」は概念論ではあり得ないのだと私には思える。さて、これはひとつの解釈であるに過ぎない。「論考」がもし仮に「同語反復」な哲学体系であるとするなら、それはすなわち即無意味でもある。ならばなんら読み学び理解するに値しない。という考え方もあり得るであろう。有名な「梯子の喩え」はこのような反意を含蓄している。

    私が解釈するところでは、「論考」の「論理」の扱いはさらなる「高み」を射程にしていると思える。それは、アウグスティヌスの「三位一体論」と対比される。いわゆる基督教の論理で「父・子・聖霊」はひとつである。という考え方である。この考え方はいってみれば至高の同語反復・トートロジーでもある。アウグスティヌスはこの三位格の関係を「言葉を出すもの」父、「言葉」子、「言葉によって伝えられる愛」聖霊という類比によって捉えている。LWの写像理論を三位一体論と対照するなら、父:「事実」子:「名辞・命題」聖霊:「論理」に対応する。論理的に写像された事実記述が完遂されたなら、その命題において事実の意味が顕れる。論理(聖霊)は命題において顕現する。(いわゆる聖人が聖人とされるのは、このような論理(聖霊)がその人の言葉や生き様に顕現しているとみなされるからであろう。それは「敬虔」という語の理念でもある。) 唯名論的に、つまり発語行為こそが重要であるという見方では、話者が発語や命題記述を行い事実を正しく写像する限りにおいて、部分とはいえ「世界」あるいは「御業の一部」を普遍的な正しさをもって記すという意義を持つ。独我論的にいえば、論理的に真である記述・理解で世界記述が充満するならば、「世界・自我・私」は神的な「外」世界と密着密接に接合し結果として合一する。ここに至った領域には、いわゆる「存在論」とは次元を異にした特別な意義があるように思えるのである。それは「世界」を超えるための跳躍であるのかもしれない。
    ウィトゲンシュタイン全集第5巻、『倫理学講話』394頁

     私が考え得るいかなる記述も私のいう絶対的価値の記述には役立たないばかりでなく、かりに誰かが提案することのできる有意義な記述があるとしたら、私はそのような記述はどれも、最初から、その有意義性を根拠にして拒否するであろう、ということであります。すなわち、このような無意味な表現は、私が未だ正しい表現を発見していないから無意味なのではなくて、それらの無意味さこそがほかならぬそれらの本質だからだ、ということが私には今やわかるのであります。なぜならば、それらの表現を使ってわたしがしたいことはただ、世界を超えてゆくこと、そしてとりもなおさず有意義な言語を超えてゆくことにほかならないからであります。私の全傾向、そして私の信ずるところでは、およそ倫理とか宗教について書きあるいは語ろうとした全ての人の傾向は、言語の限界にさからって進むと言うことでありました。このようにわれわれの獄舎の壁にさからって走るということは、まったく、そして絶対的に望みのないことであります。倫理学が人生の究極の意味、絶対的善、絶対的に価値あるものについて何かを語ろうとする欲求から生ずるものである限り、それは科学ではあり得ません。それが語ることはいかなる意味においてもわれわれの知識を増やすものではありません。しかし、それは人間の精神に潜む傾向をしるした文書であり、私は個人的にはこの傾向に深く敬意を払わざるを得ませんし、また、生涯にわたって、私はそれをあざけるようなことはしないでしょう。

    「ここで述べられた思想はけっして新奇なものではない」という序文の記述がアウグスティヌスの「三位一体論」の継承を指しており「論考」はアウグスティヌスの論理を論理学的に詳述した著作なのだ。という捉え方も可能だと私には思える。そうであったとしても、それは宗教的想念の領域であろう。しかるにLWの哲学領域としては語らず放置・沈黙されるべきだとされたのかもしれない。

    ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」はこのような基督教的伝統、アウグスティヌスの影響の下で構成され言語化された著作であろう。その論理は「人手による定義」としての「概念」が入り込む余地はあらざるべきであり、ただただ同語反復・トートロジーでのみ構成されなければならなかった。しかし、それは人のなす哲学思想でもあるから、人(子)の側の言語行為としてなされるべき唯名論によって構成された。… と私には思えるのである。


  11. 論理哲学論考 -5- 概念解体 (2011/7/15)

  12.  ウィトゲンシュタインの思想は、前期と後期。「論理哲学論考」と「哲学探究」と二つに分けられる。あたかもそこには二人のウィトゲンシュタインがいるかのごとくである。とはよく言われることである。なるほど、一見外見はそのように見える。この通俗的な見方は、主に著作の文体に起因している。徹底した番号付けによる「論考」の構成と比見すれば、後期の「探求」などの番号付けはラフに過ぎて散漫な印象を与える。しかしながら、後期の著作の大半は序文まで用意された「探求」を含めて確定稿でなく、遺稿管理者により編集された手稿のまとめであるに過ぎない。もし仮にウィトゲンシュタインに3万年もの寿命が与えられていたなら、より緻密で精緻な構成を採用しただろう。と思える。しかし、大仕事をいくつもこなすには、人生は短すぎるのである。

       先に述べたように、「論理哲学論考」は「同語反復」命題としての論理命題によって構成された「哲学原論」である。同語反復命題とされる論理命題表現という断定的な言い切り確言」で構成した。「論考」「探求」をともに「言語哲学」とする見方、そしてLWの言語哲学はその後に続く分析哲学の先駆であるという見方がある。それは一面的な見方だろう。ウィトゲンシュタインは「哲学が言及可能限界」に見定めるために、哲学の内部にあって、哲学の限界を「カテゴリー」概念を全く用いずに線引きし哲学の限界を示したのである。

       別の見方からすれば、単なる「独断論的哲学」に見えるであろう。すなわち自分勝手で独善的に過ぎる定義を振り回して書かれた極端に自己満足な哲学書であると。これはウィトゲンシュタインの哲学が「確言」することを追い求め、「概念」の使用を避けた結果、言い切りや断定的な表現が多出していることに対する印象。哲学スタイルの違いがもたらす誤解の一種である。

     これに似た別の見方には、ウィトゲンシュタインの哲学は、概念や語の定義に精緻な議論・言及がない。これはアマチュア・素人の哲学であって、哲学の専門家はその種の曖昧な議論はしないものである。といった批判がある。「素人哲学」云々は話が下品となるので論外として、彼らの主張を言い換えるなら『ウィトゲンシュタインは言語を「概念的」に把握しない。ウィトゲンシュタイン哲学は、「論理的な認識の方法を組織化した形式的な哲学」にすぎない。』と表現されるだろう。このような批判はヘーゲルのカント批判に似ている。ウィトゲンシュタインはへゲール弁証法的な合意的理解によって形成されるような「概念」の使用は主義ではなかった。哲学が正しさを追い求める言語行為である以上、弁証法的な合意形成を下地としたのでは、その正しさも歴史的な推移に左右され定まることがない。へーゲルのように概念の理解の変容も「摂理」として受け取れたり、「概念」の使用こそが哲学的正しさの根源である。と信じているのであれば話は別ではある。

     そこまで無茶な批判をしないまでも、論考内部の個々の記述に対する文節を追った批判はいくらでもある。例えば野矢の「論理哲学論考を読む」などがそれである。私個人はそうした文節単位の細かな議論に入り込もうとは思わない。というのも私個人の関心は、ウィトゲンシュタインその人の生き様と思想がどのように関連しているのか。その彼個人の思想史的なスケッチを描くことにあるのだから。このようなスケッチが描けてはじめて、ウィトゲンシュタインの思想を鳥瞰しつつ補完できたなら、その先に進めるのではないか。そう考えていた。もちろん、そうした仕事は本来、職業的な哲学教師の領分であろう。既存の解説書などを手にして読めば事済むはずである。ところが、これぞという解説書が実は書店に無いのである。

       ウィトゲンシュタインの後期思想は、「未定稿のまとめ」としてしか残されていない。未定稿というより、「スケッチ集」と表現された方がよいかもしれない。ダ・ビンチやミケランジェロは人や生物の生きた動きを精緻に描くための修練修養として、当時禁忌とされていた死体解剖などの場を設定し解剖図のスケッチ・デッサンを多数残している。この点で、ウィトゲンシュタインの手記・手稿・未定稿の類は、哲学的な解剖図で、スケッチ・デッサンなのだ。という見方もできる。

     ウィトゲンシュタイン本人においても、整然たる体系化には至らなかった。それでも、「哲学探究」に限っては、いわば素描集ではあるものの出版が意図されてもいる。いずれにしても天才をして困難な仕事を凡人がその片鱗をさえまとめ体系化するのは困難であろう。実際、私自身も長年読み続けてはみたものの、気がつくと、ずいぶん歳を取ってしまっていることに愕然とする。



     前述したとおり、私の解釈では、「論理哲学論考」は唯名論であり、そこで使用される語の大半は同義反復命題としての論理命題であった。しかるに哲学的な「概念」とは無縁であり概念定義からも自由でありえた。それゆえ、定義を巡る批判と承認という弁証法的な議論からも無縁であり得る。それゆえ、「論理哲学論考」は究極的な哲学体系として機能し得るし、同時にそれがトートロジーであることによる無意味さの結果、哲学的な言辞の限界が示され、いわば哲学は投げ捨てられた梯子のごとく「(実在論的な)実生活」においては不要無用である。「論考」の意義とは、私においてはそのようなものであった。

     このような概観から「論考」に欠落している哲学的議論があるのはまた明白であろう。一つは「語り得ぬもの」としての実在論的領域であり、もう一つは、西洋哲学の様々な議論を推進してきたはずの「概念」とよばれる語や命題の意味了解に関わる人為的な領域である。

     実在論的な領域については、それは宗教的な領域として哲学から切断され得る。それは教会あるいは食前の祈りなどで語られるのは自然としても、事実として確認し得ないことがらは哲学として述べなければよい。とされるだけであろう。ここにおいて、哲学と宗教とは同一個人においてもきちんと線引きされて共存し得るのである。

       さて、もう一つの問題、「概念の扱い」は厄介な問題である。概念とは簡単に言えば、「~とは何か」という問いに対する回答という形態で表現される語の定義・解説の類である。語の意味理解であるともいえる。

       ところが、ウィトゲンシュタインの「論考」の概念は「形式的概念」であり、p,q,rなどの記号で置き換え表記可能とされている。さらに、基本的な記述形式である要素命題に対する否定論理積操作の繰り返しの結果が命題だとされる。逆に辿れば、概念は真理函数の操作の繰り返し回数の回数分、要素命題へと集合分解できる。
    6 真理函数の一般形式: [ p-bar ,  xi-bar , N( xi-bar )].

    これは命題の一般形式である。
    これは、ある一般的な概念が命題によって言明され得るのだとしたら、その概念は概念の生成基盤となる諸事実を記した要素命題の否定論理積操作の繰り返しの結果である。要素命題の否定論理積。さてそれは確かに概念の生成の過程と結果を説明しているとは思える。しかし、愛、法、道徳のような社会的生活の核に位置するような概念とか、弁証によって正反議論の定まらない問題概念や、勘違いによる誤解や確信犯的な反事実的概念などの有り様までもうまく説明できてはいないと思える。 要素命題という事実記述の最小単位から構築された「論考」では、様々な誤謬や齟齬温床となる概念理解を「偽な様相命題を含むが故に無意味」などと排除することはできても、そうした発語を手懐け、調停し、相互的な合意へ至るような道を見いだすのは困難なのではないか。

    ウィトゲンシュタインの哲学において概念の使用を忌避する傾向は根深い。それはほとんど生涯を通じて変わる事がなかったと思える。そして、この「概念」の考え方や扱いをより深化させていく道が後期思想の行方であったと私には思えるのである。






    Copyright(C) Satoshi Hanji 1997-2014. All Rights Reserved.